少し前に読んだ山内マリコさんの『逃亡するガール』が、深夜ドラマを見るように読めておもしろかったので、同じレーベル*1の本を読みました。
この物語は『世にも奇妙な物語』の特番にありそうな話で、居心地の悪い感情が身近な経験の組み合わせで想像できるように書かれていて、嫉妬が題材。
それはあまりにもよくある嫉妬というか、潜在的嫉妬のようなもの。
この本を読んでいると、こんな妄想が立ち上がります。
もしわたしが○○を持っていることを知ったら、
この人はどうやってわたしと友達でいることをやめていくだろうか。
毎日上書きしている筋肉痛のように、ずっと当たり前にある配慮材料。
こりゃメンタルに悪そうな本だと思うかもしれないけれど、この小説は設定がコミカルです。
* * *
実は持っていることを言わないでおくという場面は、持っていないことを言わない場面と同じくらい、人生には多いのかもしれない。
子どもの頃のほうが、それを慎重にコントロールしていた気がします。
スネ夫みたいに露骨に自慢をする子どもなんて実際には滅多にいないもので、だから漫画のキャラクターになっているんですよね。
* * *
これが、持ち物や経験やステータスではなく、基本的な身体機能だったら。
「味覚」に喩えてみると想像しやすくなります。
例えばコロナの後遺症がもっと強い症状で拡がって、味覚が鈍感な人が圧倒的マジョリティになった世界ではどうでしょう。
ダシの味がわかる人が「違いがわかる」ことを口にしたら、めちゃくちゃ嫌味なやつになります。
社会的成功者のほうが味覚が鈍く、凡人であるわたしが味覚を保つことになったら、味の奥行きがわかることを誰にも言えない場面が増えていく。
過去にダシの味がわからないことをバカにした人が、自分よりも味覚音痴になる下克上が起こったときに
「すみませんが、あなたのように鈍感舌じゃないので・・・」
と言えない。
復讐する自由も自慢する自由もない世界。
これは地獄か。
これを地獄としないことが、いま社会が向かっている多様性に配慮した平等な世界なのだとしたら。
小説の中で、ある登場人物がこんな内面を吐露しています。
みんな、自分を傷つけた者とどうやって折り合いをつけているのだろうか。傷はどのように乗り越えるものなのか。許すのも許さないのも、どちらにしても選択するのは自分だということも、しんどい。
この思いを、小学校、中学校、高校、その後、、、と、何人かの登場人物がそういう思いをしています。
固定された関係性の中で、“自慢に見えたら殺されそうな地雷” を察知する運動感覚が繰り返し描写されていました。
* * *
「自慢に見えたらおしまいなこと」は大人になるほど減っていく? 増えていく?
親、義親、夫、子供たち、ともに住む動物たち、自分がマネージメントする仕事、小旅行、自分で作った美味しいごはん、時間を共に過ごす笑顔の仲間たち、それらをすべて日替わりで見せるハイセンス。
これらを持っていると示す証を今日も Instagram にアップする友人の姿を思い出しながら、彼女を友人と当たり前に思わなければいけないだなんて、そんなバカなことがあるかいなと、頼もしいわたしが言っている。
感想がまとまらない w
*1:動画配信のU-NEXTが出版しているドラマっぽい中編小説