もしカントが子を作っていたなら、その行為は単なる個人的な選択ではなく、理性の自律性を根底から揺るがす事件として、彼の倫理哲学の権威を静かに、しかし不可逆的に失墜させていたであろう。カントの思想とは、理性が自然的傾向を統御しうるという理念を、言語の上で主張するにとどまらず、生活そのものを媒介として実証しようとする試みであり、その実践においてこそ「義務のために行為せよ」という命題は、単なる規範的格言ではなく、理性が欲望を中和しうるという信仰の構造として、彼の存在全体に身体感覚ごと貫かれていたからである。ゆえに、彼の独身とは、単なる私的選択の結果ではなく、理性が自然に抗しうるか否かを問う実験的生存であり、倫理の純粋性を保持するための沈黙の実践であった。そもそも子を持つという行為は、生物学的繁殖に還元されうるものではなく、むしろ人間が自らの意志によって他者を存在の場へ導入するという点で、形而上的な暴力を内包した行為である。このとき、カントが定言命法の原理において説いた「人間を手段としてではなく目的として扱え」という倫理的要請は、存在させるという決定の不可逆性の前に沈黙せざるをえない。なぜなら、生まれる子は理性の熟慮の結果ではなく、感情や偶然、さらには欲望という非理性的要因の産物として世界に投げ出されるからであり、そこにおいて理性はもはや自らを独立した立法者として保持することができない。すなわち、子を持つということは、倫理の純粋性を現実の感情的契約に引き渡し、理性を自然の再生産機構の一部へと従属させることに等しいのである。したがって、もしカントが父として生を共有していたなら、その瞬間、彼の道徳律は不可避的に情動の温度に侵食され、「義務のために行為する」という理念は、現実的幸福との折衷に堕し、理性は家庭という制度的密室の中でゆっくりと腐食していったであろう。彼の倫理学が保持していた緊張は、愛情・責任・血縁といった情動的価値に浸蝕され、義務と幸福、理性と生の間の峻厳な境界線は、もはや維持され得なかったに違いない。カントの偉大さは、彼が理性の力によって生の制度そのものを拒絶した点にこそ存する。彼は生殖を放棄することによって、倫理を生命の連鎖から切り離し、道徳を生存の欲求から脱領土化した。それは、欲望を単に否定することによる禁欲の勝利ではなく、世界そのものからの距離の確保という形而上的離脱であり、彼の哲学はその距離の内部においてのみ、純粋形式としての厳密な成立を得たのである。カントはこの意味で、哲学を語る者ではなく、哲学そのものとして生きた者であった。カントは結婚を本気で考えていた時期があったようだが、もし、子供を持っていたのであれば、哲学実践者としての権威は薄れ、本質的な哲学実践者の資格は剥奪され、俗世の倫理学教師に成り下がっていただろう。
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「嫉妬」と「死」の関係。ヘビを恐れる反出生主義者
蛇という存在は、古来より嫉妬や執着と結びつけられてきた象徴である。聖書におけるエデンの蛇は、イブを誘惑して禁断の実を食べさせ、欲望と羨望を喚起した。ギリシア神話のメデューサは、アテナの嫉妬により蛇の髪を持つ怪物と化した。日本の安珍・清姫伝説でも、裏切られた女が大蛇となって愛する僧を焼き殺す。これらの物語は、蛇を「嫉妬に取り憑かれた女」の象徴として描き出してきた。能の世界でも同様の観念が造形化されている。嫉妬に狂う女を表す能面が「般若」である。般若は角と牙を持ち、鬼女の相貌を示すが、その根底には愛と執着が裏返った嫉妬心がある。『道成寺』に登場する清姫は、愛の裏切りにより大蛇へと変化するが、その姿を可視化するために般若面が用いられる。ここでは蛇と般若とが重なり合い、嫉妬の女の象徴として互いに補完し合っている。能面の表情には独特の両義性がある。光の当たり方や首の角度によって、般若面は怒りに満ちた表情にも、深い悲しみに沈んだ顔にも見える。この曖昧さは、嫉妬という感情が持つ二重性をよく表している。嫉妬は相手を憎む感情であると同時に、強烈な愛着の裏返しでもある。蛇が「生命と死」「毒と薬」「破壊と再生」という両義的な象徴性を担うのと同じく、般若面もまた「怒りと悲しみ」「愛と憎しみ」という両義性を表すのである。したがって、蛇と能面はともに、嫉妬心を人間の外に投影する文化的装置であると言える。蛇の冷たい鱗や蠢く舌先に嫉妬の性質を重ねるのと同様に、般若面の歪んだ顔貌に嫉妬の感情を可視化してきた。両者は異なる文化圏で生まれた表象でありながら、人間が嫉妬という情念を理解しようとする過程において、きわめて近い役割を担ってきたのである。精神分析的にみると、蛇は死の象徴であり、人間の無意識から生まれる蛇のイメージ(夢など)は、死の兆候であることも事実ある。女の嫉妬は、男の遺伝子を獲得しようとする欲望(独占欲)と結びついており、出生と死に向かう黙々的な意識(?)が結びついているということを示しているのではないだろうか?
超人を生まない仏教。アタラクシア(心の平常)は、超人的ではない。
アビダルマ(特に部派仏教の阿毘達磨論書)では、現在のみを実在とし、過去・未来は抽象的に想定されるだけのものだ。時間は「流れるもの」ではなく、瞬間ごとに生起・滅尽する法の連鎖として説明されるのが一般的である。時間そのものを「独立した実体」とは見なさないことが基本であろう。全ての現象は「刹那滅」(一瞬ごとに生じては滅する)とされ、「過去・現在・未来」の三世が議論対象になる。部派によって立場が異なり、説一切有部(サルヴァースティヴァーダ)においては、 過去・現在・未来の法はいずれも実在する(三世実有)とされている。。現代の分析哲学における「時間の流れ」についての解釈は大きく二つ。A理論(現在主義)とB理論。Aは、現在だけが存在し、未来は"これから実在“し、過去はもはや存在しない。B理論(永遠主義/ブロック宇宙論)は、過去・現在・未来は等しく存在する。そして、時間の「流れ」は心的現象にすぎないというもの。現代の物理学(主に相対性理論)と整合的だとして、多くの分析哲学者・科学哲学者はB理論(ブロック宇宙観)を支持する傾向が強い。その場合、「時間は未来から過去へ流れる」とか「過去から未来へ流れる」という表現自体が誤解で、そもそも「流れ」は実在しない とされる。だがしかし、ここであえて、この強固な牙城を解し、「時間に流れが存在すると信じ、時間は未来から過去に向かって流れている」と措定する。その場合、「心の流れ」に対して、ある程度の体感的な思想的強度のある威信を持っているのであれば、この思想をもとに、心を軽くする信念(自己啓発的ではあるが)を形成していき、世俗の欲求のしこりから解放されたような生き方に変わるかもしれず、レジリエンスの向上を期待させる。しかしそれは、おそらくニーチェの文脈における「超克」とはかけ離れた生き様である。反対に、世を儚む精神は、大衆へと開けた文学性からは半分ほど降りている泰然とした態度であり、気が楽だけれども、AI時代における創造的な生き様としてみたら疑問符が残る。大衆が「自分もそこに入れる」感覚を希求するものなので、厭世的になっている心の状態とは相性が悪いからだ。また、先ほど述べた「流れの体感」を心のレジリエンス形成に結びつける発想は、思想的に再現性が低く、実存哲学の文脈でもあまり語られることがないために、よほど心理学に長けた哲学者でないと、そもそも扱うことすら難しいテーマだと思われる。私も現状(今)の教養レベルでは仮の結論すら出することが難しい。どうやら「流れの体感とレジリエンスの結合を長期的に実践する」という挑戦は、未踏領域(フロンティア)に近いらしく、深掘りして体系化できれば、それなりの独自性がある哲学思想を打ち出せるかもしれない。その思想を実践できれば本質的な哲学者といえる陵域に到達できるかもしれない。その野心自体は、大衆への関係を諦めない通俗性と、アタラクシアとは対極の能動性が必要。「半分降りる」ことで却って「希少性」を得る可能性に賭けることも選択肢の一つ。これからの時代は、「大衆との通俗的接点」を保つには文学性や比喩の力に加え、教祖的な素養を要する故に、世俗への関心が希薄なアタラクシアや隠者のような、静かに能動性を削ぎ落とす生き様は、時代にそぐわ無い。
中二病×造語___。劇場版〈名探偵コナン〉の題名パロディ第二弾。
例)隻眼の残像(フラッシュバック)
紺青の拳(フィスト)
水平線上の陰謀(ストラテジー)
沈黙の15分(クォーター)
から紅の恋文(ラブレター)
中二病×造語__。劇場版《名探偵コナン》の題名パロディ - 弱化ロープ←前の
- 月詠の奏神(マエストロ)
- 胡蝶の祈廻神(トロイメライ)
- 断裂の連城核(アポクリフォート)
- 天冥の虚神像(ニルヴァーナ)
- 蛟喰の狂賭徒(フリオーサ)
- 渇略の女傑(エカテリーナ)
- 空蝕の螺肌炎(カラミティ)
- 刃祭の精雫(リゼルファータ)
- 神影の刹錬槍(ゲイボルグ)
- 冥途の朽彩刃(リュミナシオン)
- 玉響の矮像画(カリカチュア)
- 崩溶の惺城(カミオカンデ)
- 超絶技巧の弦憶(ストラティバリウス)
- 形而星上の交錯(ファンタズマ)
- 神々の盤上遊戯(ファタリシェル)
- 爆制の憤肌薬(コンサータ)
- 巨魁の星骸(アエスタル)
- 反嗤の詩祖魔(アレイスター)
- 環啓の残舞(エチュード)
- 覇烈の湛奏(フォルテッシモ)
- 絶頂の奇冴花(エーデルワイス)
- 死累の呪嗟曲(モリタート)
- 神禁の伝書(エクリチュール)
- 境嶺の辿軍師(ハンニバル)
- 統関の弦数体系(ピタゴラス)
- 権謀術数の血潮(ムーレ・イスマール)
- 糸導の創芸師(アルティフィクス)
- 戟甘の柔域波(ドルチェナリア)
- 神閣の楼兎獣(アルミラージュ)
- 王舎の城閣(アーナンダ)
- 神象の峰窟(ガネーシャ)
- 永劫の累旋帰(ユークリディア)
- 烈神速剣の覇皇(セイリュービ)
- 暴虎馮河の碧戮(デスペラード)
- 万城の霧魔殿(パンデモニウム)
- 紫電の呪撃(ベルゼビュート)
- 神碧の剣王獣(ビャクガロウ)
- 妖柱魔の侯爵(アスモディオス)
- 奏列の十紋刃(プログド・レェッジ)
- 蛇皇の神巻帝(アスクレピオース)
- 供碧の命(ヤンオーガ)
書きかけの雑文。ショーペンハウアーを憑依させてみた
サディズムは性対象の客体化であり、対象の自由を搾取するもの。、マゾヒズムは、逆に他人の自由に身をゆだねねること。SとMは切り離せない。サディストは、やがて崩壊する人生・命が燃え尽きる様を他者の中に見出すのだが、他者はただ道具の域を出ず、本当に見出したいのは、自分の燃え尽きる命の美しさなのだ。
女性性はつねに客体「求められる性」であるため、自己格律に従って行為する主体としての道徳性を持ちえないとする。女性性は求められることが欲望の根源にある。好きな男のペニスが自分に向かって屹立していることは、求められる性の具体的な関係であり、女の悦びである。
選ばれることが宿命づけられているために、選ぶことが苦手である。しかし、選ぶことが好きなことが多く、一つ欲しいのではなく全て欲しいとも思っているが、やはり一つ欲しいのである。(?)
キルケゴールは、人間の倫理的生とは、究極的には「演じる(act)」ことを通じてしか形を取れないと示唆した。倫理的自己とは、演技と誠実さの境界線で生成される。この意味で、演技=偽物、という単純な価値判断はできない。
大衆的女の道徳的葛藤は、完全に存在しないのではなく、“演じる”という形で表出する。それは、女性性が客体に立脚しており、当人も自覚していることを意味しているのでは?しかし、その葛藤は道徳的ではない。哲学者サルトルは、葛藤が、他人に対する存在の根源的意味であるといいい、わたしの根源的な堕落は他人の存在すること、と言っている。主体間の関係が葛藤と規定される。性交や恋愛における自他(主に男女)の関係が、お互いを客体化して高めある関係であれば、どちらか一方は単に相手のための手段としてしか扱われないことになるため、カント倫理学における、「自己および他人は単に手段とみなされるばかりではなく、常に同時に目的として見られなければならない」という目的の王国が崩壊するのであり、性交を不道徳であるといえるだろう。カントは、性交に愛情があり、相手を道具としてみずに尊重できればいいと考えていたらしいが、サルトルの論理では、その考えも、目的の王国も、ズタボロになっている。
遊びというものは、すべて安定を求める人間の性質をあえて崩すことに価値がある。人間の現状に止まる快適性はコンフォートゾーン。、高次元に向かえば向かうほど自己実現に向かっていく。現状の快適性をあえて崩すために遊びを機能させる。遊びを起こす動機には、欠如というものがある。欠如というものは、0であり、充足というものは、1である。あラゆる人間行為には、0を1にするというおあつらえ向きな感じ(?があり、0を1にするということは、創造的な行為なので、人間のあらゆる行為は創造的であるということもできるのか?プラトンは、「ティマイオス」の中で、「常にあるもの、生成しないものとは何か。そして常に生成し、決してあるということがないものとは何かということだ。」と語っている。ニーチェもプラトンを継承して「存在するものは、生成しない。生成するものは、存在しない。」と述べている。存在とは常にあるものであり、生成とは常に移り変わるからあるとはいえないものだ。そして、ハイデガーは、生成のことを、他のようになり、したがってまた破壊すること」である述べている。また、存在のことを「固定化」だと述べている。生成と、新しいものを好む人間の性質は親和性が高い。固定化されている「存在」である、パートナーでは、満たされず、新規探索性が「生成」に誘惑されてしまい、浮気や不倫に走りやすい。人間は今あるものを失う固定化されたものの損失を恐れつつも、生成の魅惑には抗えないので、浮気や不倫に走るのかもしれない。生成と破壊はつきものである。破壊されているものは、一つではないのだ。少なくとも、他のものになるであれば、元のものは消えている。出生も同じである。愛も同じである。人間が儚いもの惹かれ価値を感じるのは、1であるものが0に戻ることに価値を感じるのであり、0になったものが1に戻ることがないかもしれないと思うことで、希少性を感じるからかもしれない。
人間は手に入ったものを求めないので、常に欠如と充足の対象は流転し続けているといえる。人間生活というものは、すべて常に何かが足りないからこそ存在しているといえるかもしれない。これは、仏陀の論理につうずる。おそらく、ラカンの対象aにも繋がってある。ブッタは反出生主義に近い思想を打ち出した。いっさいかいくなど
他の生物に比べて、人間の語彙が異常なほど多いのは、豊かさの証ではなく、実は、心の欠乏感、貧困から生まれるもの。例えば、長期間のひきこもりの人は、言語能力が自然発火的に上がりやすい。社会的動物である我々人間にとって、社会との断絶は欠乏を増やし、実存的な葛藤が起き、絶えず、自分と社会について往復的な自問自答が起き、自分の心の救いとなる言葉を求めて、「本、映像作品、インターネット」などの言葉の海で泳ぎ、思索を重ねることになる。また、社会とつながっていたいとというモチベーションによってインターネットなどで、言葉を用いた自己表現をしている人の場合は、言葉を紡ぎながら試行錯誤しているうちに、属人的な言語感覚が育まれていくので、いい意味でも悪い意味でも世間ずれした独特な言葉の操り方ができるようになっていくので、いつか刺さる人に刺さる可能性が、少なくとも一般の人よりは高くなる場合が多い。人間の語彙力は、満たされない心によって強化されてきていると言える。これは、フロイトの昇華の理論と深くつながっている。ごくごく一部の繁殖価値(性的魅力)が極端に劣る女性を除いて、ほとんどの女は、性的に満たしたくても満たせないという壁(全くモテないという状態)をあまり感じずに済むため、語彙力が豊富になることがなく、人を楽しませる能力が磨かれていかない。まぁそもそも、女は、女らしさによって勝負しているところがあるので、「話の面白さ」というような、客観的評価を廻る戦いの土俵に立つことに比重を置かず、自分自身の細かい女性的魅力に比重を置く。ほとんどの女の話が驚くほど紋切型で、死ぬほど退屈なのはこれらの理由からだろう。女はどれだけ話がつまらなくても、男に楽しそうに話を聞いてもらえ、話を盛り上げてくれて楽しませてくれるので(なぜなら、男は相手の女の話がつまらなくても、楽しませたほうがセックスできると考えるから)、自分の話のつまらなさを直視して改善しようとしない。(する必要がない)のである。補足だが、語彙力が高いとは、ただ単語をたくさん知っているという意味ではなく、言語を運用する能力の総体的能力である。そのため、知っている単語があまり多くなくても語彙力の高い人は、たしかに存在する。知っている単語数が多い女は多いが、語彙力や人を楽しませる能力が高い女は、ほとんどいない。
賢い男ほど、結婚相手に美人を選ばない傾向がある。美人だけど退屈な男と結婚するという実例は、異常なほど多い。美人ほど性格が悪いかについては議論の余地がある。
一つ目小僧は、女性器の象徴?邪眼も女のイメージが強い。
女はある男と一般的な能力や経験が同等の場合、相手の男よりもはるかに多くの目の前のことを見ている。目の前の現実的な洞察においては女のほうがたけている
すべての芸術は音楽に繋がっており、それはリズミカルという意味で全てのセンスになっている。リズムは欠如と充足の反復と捉えることが可能。性交時のピストン運動は、人間の安定と不安のリズミカルなエロティシズムの肉欲的な発露に見えてしまう。不在と存在の規則的なうねりの反復は、変性意識的であり洗脳的。ホメオスタシスは、安定的な生体を保つ機能。欠如と充足を感じられること自体、ホメオスタシスが機能しているから。安定と不安定の間にある宙吊り(サスペンス)を人は楽しむ。安定からのズレがリズムと予想外をうむ。笑いも同様。
エロティシズムというののは、エロティシズムに思いを巡らせることそのものである。衣服を着用せずに社会生活を営む部族などでは、傍目にはエロティシズムがあるように見えるが、当事者にはエロティシズムがないことが多い。エロティシズムは主観的な想念でしかないのだろう。
交尾のあとに実際に死んでしまう動物も存在する。ちなみにこの世でも最も純粋な性欲が強いと言われている、あんてきぬすぅは、テストステロンが暴発して四六時中発情しており、メスを見つけ次第に飛びつき、交尾をするので、すぐに健康を害してしまう。性的絶頂を「逝く、死ぬ」と言いあらわすのは、古今東西に共通の自然的な連想作用によるものであるといえる。実際に、動物は性的絶頂の際に、創造的破壊を行っており、実際に子が宿るかどうかに関係なく、無意識的に小さく死を創造しているのである。
人間は、死を好む生き物であり、誰でも、死ぬことに対して好奇心を抱いている。
男は、精神・意志に生きるものであり、女は存在そのものに生きている。女にとっての市場価値は、自分という存在そのものであり、現実である。それゆえに、自分のそのものを愛されたいと思っている。○○が優れているから好きではなく、自分だから愛しているとされたいのだ!!つまり、女がおしゃれをして化粧をするのは、自分自身そのものを愛されたいという願望に反する行為ではないだろうか。世間のおんながよく口にする、「猫になりたい」という言葉は、何もせずに、ありのままで私は愛されたいという願望を遠回しに言っているのではないだろうか?そのくせに、ありのままの男を見殺しにすることも多いので理不尽だ
女は幼いころから、強さをはじ、他者のために生きることを教育される。
女性は、太古では踏みにじられる「性」であったために、自分の身を守るために、複雑に進化している。
髪質には健康状態があらわれる。長い髪は健康的なシンボルであり、繁殖価値の高さが表現されている。女が長い髪を切ることを話すと、周りの女が「似あうと思うヨ!!!」というのは、長い髪を短くさせることによって繁殖価値を低くみえるように促すことで、自分の優位性を確保できるからである。髪で思い出したのだが、男の禿げ頭はペニスの象徴になっており、ハゲに性的魅力を感じる女も多いようである。(諸説あり)
男と女では、それぞれ知性の偏りがあるが、女特有の決定的な頭の悪さというものもある。例えば、個人的な偏愛を普遍的な感性だと錯覚することで、一般論を語ることが難しいというものだ。どんなに聡明な女性でも陥る頭の悪さである。一般的には、イケボと言われている男でも、ある女性からは、あまり好きじゃない声だったとする。その場合、その女は、この声が好きな人はいるだろうけど、少ないだろうなと考えることが多い。しかし、女も(特に最近の女は)自分の偏愛が一般的な評価に当てはまらないことが多いことには理屈として気が付いているようだが、それでも心では理解できないのである。この女性特有の頭の悪さのせいで、精神構造を崩壊させ、人生を台無しにしてしまった男は、あまりに多い!!!!!!女はクズである。
例えば、オウム真理教の女性信者の多くは、教祖麻原彰晃のことをイケメンだと錯覚していたらしい!!!!!!一般的に浅原よりもはるかに容姿に恵まれている人よりもイケメンだと思っていたのなら、完全に錯覚である!!!
幸福という言葉は通俗的であり、男の幸福という言葉はなく、女の幸福という言葉があるのは、女=幸福であり、通俗的であるからだ。そもそも幸福という言葉が通俗的である
反出生主義者は、主義の前提や骨子は同じでも、動機は多様である。中には、自分の性欲に対する嫌悪が出生否定に結び付いている人もいる。
太古より、女は、性的対象に入らないどうでもいい男を孤立させたり、あからさまに苦境に追いやるよりも、性的な関係のない友人に留めておくほうが、常に安全で都合がよいと感じている。なぜなら、女は男に恨みを買わずに社会的安定に身を置いたほうが、楽で得だからである。女が、どっちつがずの態度をとったり、どうでもいい男から告白されても、あからさまにスパッと断らずに、あいまいな態度をとったりするのも、すべて、男の心を案じているからではなく、恨みを買うと損をするからである!!。外形的には優しいかもしれないが、実態は、自分が楽に得をすることしか基本的には考えていない。道徳的な人の場合は、人を不幸の内に放置できないと考えるのだが、女は基本的に自分よりも弱い立場の人間を見殺しにする。大昔から先見の明をもつ哲学者が、こぞって女を社会進出させるなと言ってきたのは、女の立場が上がることは、女が見殺しにできる人のゾーンを拡大することになると見抜いていたからである。現代になって、スクールカースト底辺の男子を女子が虐げている光景は、女の社会的地位向上やスクールカースト制度によって立場が守られており、反撃のリスクが少ないから、ある程度安心して虐げられるのである。人間が人を攻撃する条件として、相手に反撃されるリスクが少ないかどうかは関係がある。なので、たとえ女が表面的に攻撃性がなく優しかったとしても、それは、攻撃を返された時に自分を守れるほど強くないならという自己保身的な優しさに依拠している場合は、本来の意味では優しくはない。強さの伴わない優しさは自分も他人も腐らせる。しかし、人間は社会的・外形的に悪いことをするからこそ、悪くなっていき腐ってしまうという見方もある。なので、品行方正な人は、ある意味では性根が腐ることはあまりないのかもしれない。
世界共通の性的シンボルの一つに、花火がある。花火は、女の性形態と同じく、客体であることは言うまでもない。花火というのは、咲きほこる花を表現している。花というものは、冷静に考えてみると、植物の生殖器であり、生命の誕生を象徴しているということができる。また、花火は、基本的に暗いところで行うものである。人間は太古から闇を恐れて光に安寧を求めてきたと言われている。暗闇の中で、光、闇と光が交互に繰り返されることにより、人間は不安と安心というダイナミックな心の流れが生まれる、これは非常にエロティックな状態ではないだろうか。ドキドキするということは、不安と安心のダイナミズムと深く関係しているのではないだろうか。余談だが、打ち上げ花火の動きが、精子の動きに似ているのは、何かをかんじさせる。文月悠光という詩人が、処女作で、打ち上げ花火を精子とかけあわせる詩を描いていたが、意図的である。おそらく、彼女には、16歳の時点でフロイトを知っている。
ショーペンハウアーの哲学では、盲目的な自然の意思に人間は翻弄されているという。自然が人間に男女同体に戻るような暗黙的な意思を働かせて、宇宙からの弾性としての牽引力があるのであれば、人間は進化の果てに、性別が統合されるのではないだろうか?という仮説がある。そう考えると、性交の一つ一つですら、一時的に対立した性の境界を踏み越えることで男女同体という理想を無意識に体現する行為なのかもしれない。科学的根拠にかなり乏しい仮説でしかないんだが。プラトンの傑作、饗宴は、シャーペンハウアーの意思と表象としての世界で眺めると、面白そうだ。どちらも読んでないのだが。人間を含めた生物個体は、すべて必ず死ぬということを知っている。死という宿命的な病気を克服するために生殖行為を用いる。性欲を否定することは生きようとする意志を否定することになるため、すでに生きながら反出生主義を否定するという行為は、態度としては矛盾している。ただ、重要なのは態度でなく、言葉の情報内容そのものであり、生きた人間でも論証は可能である。では、人工知能が、反出生主義を論証したとしたら、どうなのだろう?動物に性欲があるのは、個体に死が宿命付けられているからであり、その死を乗り越えるために種の存続(同族を途絶えさせない)性交をする。これにんは、自分が最も死ぬことを恐れいているくせに、別の個体に死を与えるというエゴイスティックな理不尽が存在する。自分の死を乗り越えるために、犠牲を強いているのである。
女は、他の女に選ばれている男に興味をもつ。男も、有名な女を好む傾向はあるが、例外がある。
恥じらいを演出しながら、裸の部分を見せずに裸になろうとする女は、いやらしい目で見られたいという客体としての願望と、反対に、いやらしい目で見られたくないという願望の境界のエロティシズムを演出しているのだ。客体としての自分の性的価値を冷静に客観的に見た上での狡猾な演技であり、それこそは、思わせぶりの振る舞いの一例である。
母親は、自分に母乳を飲ませたり、生まれたばかりの子供と自分の間に主体と客体が同体となっている。
女の性は、求められる客体としての性であり、社会性と断絶することのできない性である。ゆえに、女はどんな環境でも開放性・外向性を失わない。根拠としては、女の生殖器は埋没しており、生物学・解剖学的に受け身だからである。女は、身をやつすことにより、相手の喜びを自分に共有することによって客体としての性的充足を図るのである。女は共感の生き物と言われるゆえもここにあるのかもしれない。男の生殖器が見た目通りむき出しの欲望を体現しているが、女の生殖器は体内に埋没しており、受動的な性形態になっている。男が求める性でれば、女は求められる性。欲望されるところの性である。求められることに依存する娼婦としての客体の性ことそが、女性である。
女性性というものは、二つの原型にさかのぼることができる。一つのは処女性、もう一つは娼婦性。正反対の概念にみえるが、根本の部分では、子供を設けないという共通点がある。女性性は、母になった瞬間に終わりを告げるので、純粋な女性性には、処女性と娼婦性の二種類しか存在しない。また、処女性というものは、処女を失うことが前提で価値が発揮される面と、処女性そのものの純潔の価値は同時に存在しており、処女を失うことが前提の価値が無意識に根付いている以上は、娼婦性と切っても切り離せないものであり、娼婦性が芽吹く前の根っこの部分が処女性であるという見方ができるだろう。処女性の価値は、娼婦性の萌芽を期待させるからこそ、真の価値があるという見方ができ、娼婦性がこの世に存在しなかったら、処女性を重んじる文化も存在しなかっただろう。もし純血の処女性を誇る高貴な女性が、その実を複数の男に強制的に汚されてしまった場合、娼婦性が発揮されればされるほどに、処女性が輝きを放つという皮肉ながらも真理を突いた複雑な女性像が体現されるということになるのだ。サディズムの語源にもなった哲学者のマルキ・ド・サドは、自身の小説「美徳の不幸」において、純潔の女性主人公を性拷問に陥れるさまを描写し、処女性と娼婦性が極限まで倒錯的に交錯する性の美学を筆致して魅せた。ちなみに悪徳の栄えが悪女が完全勝利する作品だとすると、美徳の不幸は、美女が完全敗北する作品である。もし、純真無垢な男性への性的虐待を描くのであれば、客体になりにくい男性という性形態であるがゆえに、凡作になりやすいのではないだろうか。虐待された男性が、女に性的虐待で反撃する復讐譚であれば、女性という客体を生かしたグロテスクな性描写が輝艶を放つことであろう。女の性は客体としての性である。客体であるがゆえに、もし不特定多数の男から脳内で侵犯をされることは、現実に行われている。しかし、資本主義・民主主義により、客体としての市場価値が担保されているため、精神世界でどれだけ被害にあっていようとも、本人は得をする可能性を秘めているという逆転構造になっている。人間関係においては、常に影響を与えている側が上であり、影響を受けている側が下である。ユーザーが画面の前でどれだけ客体モデルに侵犯行為を行おうとも、相手からすると一人のユーザーという数字でしかなく、微々たる影響しかない。女の弱さは、強さと不可分一体となっている。人間は、社会的動物であり、資本主義に侵された現代において、さまざな形で蔓延っている。客体としての性形態が、射幸心をあおり、消費行動を促す資本主義の構造に適合的であり、まるで女性性の設計思想が事前に先立っているかのように合目目的であるのは、気のせいではないだろう。性的興奮を消費に結び付ける社会は、とうの昔に到来している。人間は、性的興奮の刺激により、リスクをとる行動をとりやすくなることが研究により判明している。金銭的リスクをとる消費者が増えるほど、経済は回転し、特定の事業は儲かる。そのため、ユーザーの性的刺激を促すために、露骨な女性性ではないく、メタファーとしての女性性を消費行動に結びつけるように、設計されているものは、数多い。社会の広告塔は、最大公約数的に性的魅力のある者ばかりが抜擢されるし、日常にあらゆるコンテンツは、もはや「女女女」だらけで、まことに姦しい。その女性性を用いた商品は、露骨なものばかりではなく、象徴的な形でも日常に潜み、巧みに金を巻き上げる搾取装置として機能している。例えば、車、パチンコ・スロットマシーンなど。ペニスのメタファーたるシフトレバーに挟まれた革は、まるで女性の素肌のような感触であり、リアは臀部である。また、物の速度の速さに異常なほどこだわるものは、男性ホルモンのテストステロン的な優越性にこだわる外向性をもっており、刺激を求める。車というもの自体が、性的シンボルの集合体のようなものである。レースクイーンという職業も、おそらく性的シンボルとしての車との寓意性を物語っているように思われる。男性的な性的興奮と車の親和性は非常に高いものだ。パチンコ・スロットマシーンにおいて、コインを投下する穴は、まるで女性器のようであり、コインという精液を射精して、回転し、脳汁のサイクルで性的興奮を助長させ、絶え間ない消費行動のリスクにユーザーをいざなうシステムが構築されている。哲学者ニーチェはかつて、「男が熱中するものは、二つ。危険なものと、遊びである。男が女に熱中するのは、危険な遊びだからである」と告げた。ギャンブルはまさに、危険な遊びであり、一種の形を変えた性行為ではないだろうか?資本主義社会においてお金は命も同然。その命を賭けるギャンブルは、もはやエロスとタナトスの交錯する性遊戯である。資本主義というものは、お金というものを、別の者に錬金する創造的行為ともとることができる。現代の鬱屈した性的欲求の不満・抑圧が、性と同じく創造と破壊が同根の消費行動に駆り立てる仕組みを社会全体が形成しているといえるのではないだろうか?女性の性形態は常に客体に立脚しているという事実、これはカント倫理学的にみると、決して道徳的ではない。格律に従い普遍的な道徳法則に従って行為することが、自分のみならず人間行為一般に適応されるべしものである。そのため、常に客体であるがゆえに、自己の格律に従って行為するための精神が欠落している女性は決して道徳的ではない。
女というのは、女らしさ、激情性、詩的感性、遊戯的、子供っぽさ、本能の抑圧から解放など、ディオニソス的な特徴を持っている。ディオニソスは、男の神であるが、女性性を多分に帯びた神であり、創造的なものである。創造という言葉の、「創」には、刃物で傷つけるという意味と、新しく始めるという2つの意味を併せ持っている。刃物というと、槍傷を負わせるという語源をもつ、からかうという言葉を思い出す。からかうことや槍傷を負わせることは、性交の寓意性である。性交というものは、生殖に本能的に直結する行為であり、胎児が宿る時点で、その胎児の死は確定している。人間はいつか必ず死ぬため、母体に命が宿った時点で、創造的破壊の行為であり、生という創造と同時に、死という破壊的な行為を行っていることになる。創造と破壊は同根である。例えば、公園を造ったとしたら、環境破壊をしていることにもなるのと同じである。
「アクメ」(acme)は、もともとは英語で「絶頂」「頂点」「最高潮」という意味の言葉。語源はギリシャ語の ἀκμή(akmē) で、「刃の先端」「最盛期」「ピーク」を指す。日本語では大きく2つの意味で使われます。一般的な意味は、物事や状態の「最も盛んな時期」や「最高点」• 例:「彼の人気はこの作品でアクメに達した」=人気が絶頂に達した。性的な意味(俗語) 性的快感の最高潮、いわゆるオーガズム。日本ではこの意味で使われることが多く、特にアダルト系の文脈で頻出。つまり、文脈によってはまったく健全な「ピーク」の話にも、性的な「絶頂」の話にもなる。ギリシャ語由来の語が、ここまで官能的な響きを帯びてしまったのは、日本語独特の受容だ。刃の先端というのは、槍傷を負わせるという意味の揶揄うという言葉と響きあう。ちなみに「ちんぽこ」という言葉は、矛(ほこ)から由来しているようである。
車は、部屋のようなものであり、フロイト的に女体である。女は男の車に乗った時に、車内の匂いによって男との遺伝子的相性を確認する。
ネイルをしている女は多い。しかし、ネイルに魅力を感じる男はほとんどいない。びっくりするぐらいいない。にもかかわらず、女がネイルを自慢すると「かわいい!」と褒める男が多いのは、正直に、「ネイルなんか興味ねぇわ。むしろネイルなんかしてないほうがいい」というと、セックスができないからである!善意の嘘ほど人を腐らせるものはない。ネイルに魅力を感じる男なんかほとんどいないという真実は、多くの女も気付いているだろう。しかし、女は自己満足や女社会での充足(女社会など存在しない!)をしたいのである!!!女は、男の真実で苦む資格すらないほどに腐っているので、嘘に浸り続けるのである!!!女は男の外見で萎えたりするくせに、男に萎えられる可能性のあるネイルをする女は理不尽な考え方をしている!!!!!!クズだったのである。しかし、ネイルには、家事ができないアピールや、未成熟さを表すアイコンとして機能するところがあるので、ある種の性的アピールには成功しているようである。年齢が見た目に分かりやすく反映されやすい手において、しっかり装飾が施されていることが、何かしらの、繁殖価値を高く見せる機能を果たしている可能性がある。
グッドダッドと、グッドジーンという二つの男の需要の境界、つまり、刺激と安心の間で、迷うことが好きなのであり、この迷いは弁証論法的な道徳的葛藤とは無縁(すなわち、どちらかを切り捨てることへの罪悪感とは無縁)であり、ただ、服屋で、二つのうちどちらの服を買おうか迷って楽しんでいる心理とそう変わらない。女は迷うことが好きな生き物である。気まぐれにその時の需要を見たいしてくれる商材を選んでいるだけであり、その様は、まるでショーケースに男が並べられている可能ような状態であり、どちらの性が本質的に客体なのか分からない有様である。少女漫画には、女のロマンスが忠実に描かれている。グッドダッド特有の合理的な経済的安定を示唆する、誠実性、堅実性、安定的な家庭への献身という良い父親像としての需要と、不安定だが刺激的で、肉体的魅力や強い遺伝子としてのグッドジーン(良い遺伝子)の間で、気まぐれに揺れ動く心を描く心情描写は、全て選択する上で悩むうえで、人を不幸の上に放置できない道徳的態度が決定的に欠落している。女性のロマンスとは、性的ストライクゾーンの男を選びたい放題の状況で、悩む態度に凝縮されている。悩んだ末に、切り捨てた男は過去の遺物であり、本人にとっては、悩んでいた時に踏み台にされただけの、消耗品としての一過性のロマンスである。そのくせ、自分が浮気されたり少しでも、理不尽な扱いを受けただけで、被害者ずらしてヒステリックにわめきちらす幼稚な利己的態度には、気も狂わんばかりの寒気を覚えてしまう。人間は、最初から、自分を確実に幸福にする賢明な選択など、狙ってできるものではない。なぜなら、広い意味で、人間というものは、何が自分を本当に幸福にしてくれるかを、ある一つの原則によって十分確実に蹴ってすることなどできないからである。それは、あらゆる複合的な要因、現象界のすべての因果律を操作する神の如き能力を希求するからであり、皮肉にも、その所業が可能であれば、誰も子供な生まないだろうし、そもそも未来に期待などしないであろう。恋愛というものは、理屈や二項対立的な善悪では語りえないものであり、悲劇的な終着点は、子孫繁栄になるゆえ、何が善であるかは、永続的な愛と平和が実現した未来にしか確認できず、現代人が知るすべはおそらくない。
男は女から好意を持たれていると勘違いしやすく、女は男から好意がないと思い込みしやすい。それは、繁殖機会の損失によるリスクの男女差が要因の一つである。女は男から好意を持たれていると思わない方が、下手な妊娠のリスクが少なく、男は逆に好意が本当はあるのにないと思ってしまうことで繁殖機会を逃すことを避けたいのである。
もし、女が男のように好意を持たれていると思い込みしやすいのであれば、若い女は街を歩くことも難しくなるだろう。
苦しみとは、「意思とそのさしあたりの目標との間に障害が起こって、意思がこれに阻止されること」である。人間にとって、性的に満たせないことは大きな苦しみの一つであるが、満たせてしまうことも犠牲をしいるのである。
フロイトの精神分析、夢分析的にみると、本は女のメタファーであると言われている。処女作や中絶といった言葉が使われるのも偶然ではない。また、女の性の形態が客体であり、本も読まれることを前提に設計されている媒体なので、客体であり、共通しているのである。ディオニソス的な逸脱性が、容認されているというものの本と女の共通点の一つかもしれない。序章とは、書物の浜辺であり、その浜辺は読者との関係にも開けている。本の始まりは、陸続きである。
青木まりこ現象は何か関係が?女が産む人間の子供と本は、本来、どちらも生まれるのに時間がかかる。ゴーストライターが、著者の言葉をそれっぽくまとめただけの本は、本としてカウントしてはならない。
ディオニソスと酒の神であるバッカスは同一の神である。人間の死の欲動、詩の本能(タナトス)を持っていることで、飲酒という小さな自殺に駆り立てる。飲酒はタバコと同じで、一種の自傷行為である。
女の性形態が客体であることは、アダルトなサイトや漫画などを除けば実感できる。女性が客体としての演出がされていないものは皆無と言ってもいいだろう。(ゲイは例外
女は、男を通して出ないと、道徳的に高まるということができない。
逝ったふりをするのは善意の嘘
人間は、機会さえあれば誰だって悪いことをするもの。もし、女が来るもの拒まずであったなら、人類はセックスしかしないであろう。というのも、人間には、厳しい現実生活に適応するために、社会的な配慮により快楽を求めるの本能的な欲求をコントロールする心の働きがあり、そのことを精神科医のフロイトは『現実原則』と呼んだ。人間は、現実原則に従うことにより理性を発達させ、法律や道徳や秩序や、その他のあらゆる精神文化を構築して現代に至っている。現実原則は、深いところだ『快楽原則を』に支配された人間から社会的な日常生活を営む力を与えている。女が男のペニスを24時間体制で喜んだ受け入れる堕落世界が訪れたなら、現実原則が崩壊するだろう。
カント倫理学的にみて、反出生主義は、原則にかなっている。すべての人が生まれないほうがよいということは、普遍的にいえることであるからだ。しかし、世間的に誤解されていることとして、反出生主義者の多くは、出生そのものを、自分がされてイヤなことだったからという理由で、生まれてよかったと思っている多くの人を巻き込んでいるという認識がある。反出生主義は、前提として、すべての人間は、本人の自覚のあるなし関係なく本質的に不幸であるとするものであり、決して「自分がされていやなことは他の人にしない」という通俗的でどこにでもあるような主義ではない。自分がされていやなことは、他の人にしないという主義は、自分がされていやなことはサンプルが一つしかなく到底普遍的なものといえないので、もし、自分が殺されてもいいt思っているなら、人を殺してもいいかのような論調なので、道徳法則としては全く理にかなっていないのである。
道徳的な人は、人間行為が普遍的に正しいかどうかという絶対基準を持っている。全人類が、道徳的でないかぎりは、誰も完璧に道徳的ではありえない。どんな善意思に基づいた行為でも、全ての人を救うことできない。すべての不幸が緩和されない限りは、誰も本来の意味で幸福ではありえない。人間は、誰かの犠牲のうえに真の幸福を築くことなどできない。人類の誰かが不幸であることは、一個人が不幸であることの遠因的ではあるが関係している。幸福というものは、欠乏という尺度によって規定することがでいるが、本来、欠乏というものは、本人の基準でしか判断できないゆえに、本人の希求する対象と、現時点での充足度合いの解離によって、欠乏感の度合いは決まる。すなわち、欠乏感と欠乏は同義と言えっても過言ではない。欠乏は、処理能力のあらゆる要素を弱めると言われている。そして、その処理能力は人間の行動のあらゆる面において影響を与えるので、人類に永遠の平和が訪れ、世界に愛が満ちる時代が到来して初めて、人間は本来の処理能力の限界に到達することができるのではないだろうか。そしてこの話は、女性の性形態においても例外ではなく、人類のリビドーとも深く関係している。かつて、精神科医のフロイトは、人間は満たされないリビドーを文化的業績に向けるといい、そのことを昇華といった。この理論は、日和見主義の学会で大いに受けがよく、現代でも、支持されている理論ではある。しかし、この理論には、罠がある。人間が満たされない性的な欲求が抑圧されている状態では、昇華どころではないのではないか?ということだ。この疑問は、ウィリアムライヒという精神分析家によって、なされた。行動経済学において、欠乏はあらゆる処理能力を弱めると言われており、希求する対象が大きければ大きいほど、処理能力にダメージを与える。そのため、性的欲求があまりにも不満だと、人間は、処理能力が下がりすぎて、昇華どころではないのではないだろうか。人間は、持っているものが多ければ多いほど、一つ増えた時のありがたみは減ってしまう。そのため、欠乏が全くない状態というものは、得る喜びを感じにくくなるので、常に何かが足りていないという感覚を上手にコントロールすることが、人生の喜びにつながると思われる。例えば、人類に愛と平和の時代が到来したとして、まだ、何かが足りないという状態でなければ、当たり前の愛を軽視してしまうことになるのではないだろうか。
フロイトは、人間の欲動には二種類しかないと考えていた。一つは、生を統一し、保存しようとする欲動、エロスである。プラトンの傑作、饗宴によると、人間はもともと男女同性、つまり両性具有だったとされている。人間には、二つに分裂した性を一つに戻ろうとする欲動が宇宙のけん引力として人間を支配しており、その集合体的な無意識によって、性的な結合を人間に促しているのではないだろうか。人間が性交しているとき、見方によれば一時的に性の境界を踏み越えていることになり、両性具有(アンドロギュノス)になるという無意識の願望が一時的に充足しているとみることもできるだろう。そして、性交の果てに命が芽生えた時に、女性の肉体には二つの性別が同体になっているという見方もできる。ニーチェによると、女性は、胎児を宿すことによって、肉体の自己愛を充足させるらしい。これは、男女両性に戻りたいといいう人間の根源的な弾性の一つの発露といえるのではないだろうか。もう一つの欲動は、破壊し、殺害しようとする欲動、タナトスである。死の欲動タナトスが、自分の特別な器官の力を使って、その生物の外部に、すなわち対象に向けられるときには、破壊欲動という。破壊欲動という攻撃性が、自己処罰に向かうときに良心というものは活性化するのだという。
どんな極悪人でさえも、道徳法則の威信からは完全に逃れることはできず、その権威を認めている。それは本人の自覚の有無は関係しない。たとえば、凶悪犯罪者が自分の罪を正当化するための思索を巡らせた瞬間、彼は、道徳法則にからめとられている。そもそも、人間は自分の悪を認めたがらないこと自体、道徳法則が機能しているからだ。
義務に適合している行為ではなく、義務からなされる行為が道徳的価値をもつ。カントは、品行方正な人のことを尊敬していない。なぜなら、品行方正な人は、常に社会的に善い行いをすることを心がけており、義務に適合する行為を実践しているものであり、本来の意味では道徳的価値がそれほどないからである。外形的に善い行為であるからこそ、自己愛が正当化されてしまい、社会的制裁を受けずに、むしろ権威や影響力を持ってしまうからこそ、害悪性が高いといえる。善意志の格律にしたがい、義務からなされた行為には、常に葛藤が付きまとっているため、やすやすと善行をなす品行方正なものは、たいして道徳的ではない。品行方正な人の善行には、定言命法ではなく、自己愛が動機となる場合が多く、道徳的価値はない。
女は男の精神構造を狂わせる。女嫌いを貫くうえで、女に心をかき乱されているようでは、損しかない。女の言動に気分を左右されているということは、危険な状態である。対処法としての思考術として、世の中の他人に行動はすべて自分が作り出しており、自分がいなければ、相手の言動を観測する自分がいないということなので、相手の言動を自分の心で書き換えれば問題ないという考え方をするというものだ。この考え方ができれば、相手の言動に動じることはなくなり、影響を与えられる側になることもない。人間関係において、常に影響を与えている側のほうが上なので、女の言動に影響を受けるという悲劇的現象が少なくなり、自然と見下されることも少なくなっていくだろう。恋愛において、相手に浮気された場合、男のほうがダメージを受けやすい。男は自分の彼女に対して、マーキングのような気持ちを持っているため、他の男に手を出されると、なわばりを荒らされたようなきになる。反対に、女は子孫を残すという本能が深いところにあるため、相手に将来性がないと思ったらすぐに情動が消える。よく男は記憶をフォルダを付けて保存し、女は記憶を上書き保存するといわれている。女は、基本的に自分が得することしか考えていない種族である。女の浮気は男の浮気の200倍罪が重い!!!!女は男からレイプ被害を受けた場合、あえて、傷を体に残しておくという行動にでる場合がある。これは、パートナーに対して、自分が一方的に犯されたというアピールをすることで同意はなかったからあなたに不義理は働いていないというメッセージになるからである。女は、基本的に責任回避的に自己防衛を果たすための頭の使い方をすることで、生き残ってきている。女は気まぐれ。
槍チンは、女に対して恨みを持っており、性的に蹂躙することで、晴らそうとしているようだが、じっさいはもう少し複雑である。槍ちんは、複数の女を貫通させたという名誉心によって自分を保とうとしている。それは、もともと女への劣情などが基盤に含まれている。若いころに女に精神的に踏みにじられる経験は多くの男がしており、槍チンですら惨めな時代はあったのだ。槍チン自体が或る意味惨めなのだが。
女を満足させる力が自分にないという劣等感のようなものは、女への憎悪や、反対に極端な女への従属欲求や、社会的ひきこもりにつながりやすくなる。
繁殖に失敗したオスは、放火や盗みなどの反社会的行動に出やすくなるという。精神分析に的にみると、盗みということは、ドアという女性器を突破して、部屋という母体に埋没する行為になる。
女は基本的に自分よりも立場の弱い人間を認めない。女が社会進出することによって少子化が進んだのは、女性の社会的立場が上がったとことによって、女性の見殺しにできる男が増えたからである。
男がモテ始めて好きになってのちに付き合った女は、たいていの場合、男が非モテ時代に見殺しにしたような女である。本当に賢い女は非モテ時代の男の達成能力を見抜いて、先行投資をする。
大詩人のゲーテは、「絶望していない人に生きている資格はない。」という有名な格言を残しているが、ラロシュフコー的がこの格言を読んで付け足すとしたら、おそらく、「凡人は、自分の不運や不幸を見抜くための洞察力が欠如しているので、絶望せずに生きることができる。」凡人が、小さな幸福に安住しやすいのは、単に彼らは不幸に気付けていないだけであって、彼らが反出生主義を理解できないのは、浅薄な楽観主義の中に浸っているから。
ヴァレリーは、「神になりたいと一度も思ったことがない人間は人間以下である」、と言っている。自分の中に特殊性を見出すものであれば、神になりたいと自然と思う。オルテガの大衆の定義と、ヴァレリーのこの名言はリンクしている。
大昔にファラリスの雄牛という拷問器具があったと言われている。雄牛の形をした拷問器具で、中で焼き殺されるのだが、断末魔が聞こえるように設計されているという。断末魔と産声は似ている。雄牛であるにも関わらず、子宮のような構造になっている。共通点を上げればきりがない。内部の人が閉じ込められるという構造そのもの。、熱と圧迫性。生と死の極限状態。生殺与奪の選択権が、一方に与えられているという器官。子宮の中で殺されるということは、まるですべての人間のようである。子宮そのものが、死を与えていても直ちに死に至らしめられない、一つの拷問器具のようなものではないのか?三島由紀夫は、鏡子の家という小説において、「女の体は道徳的じゃない」と述べている。雄牛であるにも関わらず、子宮のようであるというのは、拷問実行者であるファラリスが死を与える母親であり、媒介でしかないはずの雄牛を介して意思が反映されているからかもしれない。倒錯的な反映のしかたをしている。建築物そのものが、芸術や神話などの世界では女体の象徴として扱われているので、そもそもの拷問器具という一種の芸術的建築物は、子宮のようである。ちなみに、ファラリスの雄牛を創った芸術家は、ファラリスの雄牛に一番はじめに入れられて焼き殺されてしまったのだそうだ。産みの親が子供に殺されるという皮肉的悲劇である。しかし、フロイトの提唱した母体回帰欲求(原点回帰)を、倒錯的・比喩的ではあるものの達成しているようにもみえるので、完全に悲劇ともいえないのかもしれない。
あらゆるものは、すべて関係の中で存在しており、そのものが、そのもののためだけに存在しているなんてことはありえない。人間においても例外ではなく、親から生まれ、社会的動物として定められた人生を歩む以上、自分だけのために自分は存在しないということになる。人間は、社会性と切っても切りな話せず、命が尽きるその瞬間まで、いや死ぬという過去すらも含めて自己存在証明をしたい生き物である。それは、自分のクローンである子供を残すことともつながっている。人類が、進化の大半を過ごした旧石器時代の狩猟採集生活において、仲間から排除されることは、死ぬことと同義であった。
ブラジャーは、乳房を隠すものではない。
ブラジャーは、〈乳房という概念〉を意識させるために装着されている。
つまり、見られないことで、より深く視線を誘導する。
エロスとは、隠蔽ではない。エロスとは、「隠すという演出」によって暴露される暴力である。
反出生主義というのは、不幸だからなる思想とは限らない。しかし、反出生主義になる人は、自分の不幸や不運を理解しそのスケールを図れるだけの洞察力を持っていることが多い。反対に、反出生主義にならない人の多くは、自分の不幸や不運の大きさを測れるだけの洞察力が欠如していることが多い。反出生主義の思想が大衆に受け入れられにくいのは、大衆に自己観察力が欠如しており、自分の不幸を洞察できないからという側面もあるだろう。
男の努力は基本的にすべて女に認められたからという動機が隠れている。傾城傾国の美女という言葉もそのため。必死に戦って先で女に認められたとしても、その女の多くは、かつて自分が惨めだったころに見殺しにしたような女でしか無いこと。男がこれだけ、辛いのに、女は、相手を細かく選ばなければ、いつでも楽に生きれるように寄生できること。人間的魅力がなかったり、人を楽しませる能力や、人を救う能力がなくても、愚かでも許されてしまうこと。男同士で戦って勝って女に認められたとしても、男を犠牲にした上で成り立ってしまう益であること。男が苦しみ、女はその男を見殺しにしても平気であること。そして何かあれば、その女も付き合っている男を見殺しにするし、好きじゃなくなれば捨てるし、寂しかったり刺激がないと思ったりしたら、感情的な浮気に走った挙句、何か問題が起きたら被害者ヅラか知らないふりや、罪を押し付けたりなど、責任回避的に動くのである。そんな女を嫌いながらも、性的に惹かれてしまう自分に嫌気がさすというところも、一部の反出生主義者に起きる現象だろう。特に道徳的な反出生主義者は、常に戦っている感覚(内部での善意思と欲求との衝突)があるので、性欲への嫌悪を誘引的な争い難い魅力に苦しめられやすい。特に最近のZ世代の同級生の女子は、男を見殺しにしやすいし、困っている人や、自分より立場が弱いと判断した人を冷酷に刺さ人が多い。弱い立場の人を助ける女性は現代だと、50代以上の人が多い。女性の社会的地位が上がってきたことで、変わったということを考えると、別に最近の女が特別性格悪くなったというより、世相の変化で本性が見えやすくなったという面も大きいだろう。
アニメキャラは客体。
そもそも、反出生主義を主張することは、一種の創造的破壊と言えるかもしれない。(ニーチェの毒蜘蛛タランテラのように)人前で意見をいうということ自体が一種の犠牲をしいる行為だとすれば、何かを踏みにじったうえでの正義ということになるのだ。しかし正義とはそういうものである。何も傷つけないかわりに何も生み出せない人間というものも存在しているだ。
女は騙されたままでいたい生き物。女は責任回避性が高く、疑って責任を負うくらいくらいなら服従する快感に酔いしれていたいのだ。ホストがバーナム効果を用いたような常套句を言ってきて、言い当てられたと一瞬思っても、すぐにサービスだと気付くが、それを直視して人と向き合うくらいなら、騙される雰囲気に呑まれいきたので、ドンペリを頼んで、馬鹿騒ぎしてしまうのである!
誠実で能力の高い男よりも、軽薄で頭がおかしい男のほうが、少なくとも若いうちは、モテるのはなぜか?多くの人間は、他人のことをざっくりしか見ておらず、相手を通してお互いに高まっていこうとはしないので、尊敬されるための行動よりも、人間のどうしようもなさが前面に出ている軽薄さのほうが、「人間なんてこんなもんだよね笑」みたいな気軽さがあり、親しみやすいのである。しっかりしているまともな人は、この人凄いなと尊敬はされるかもしれないが、「一緒にいたい」とはなりにくい。恋愛市場なんか嘘ゲームみたいなものである。嘘からははじまり、代弁的な死の欺瞞で終わるのです。
女は基本的に雰囲気に飲み込まれやすい!
女に多いのは、自分の前で争いがおこることに耐えられないというもの。
人間は性的絶頂の際に、楽しい表情をしていることはない。苦痛の表情をしている。男性の射精の場合は、後悔と耐えがたい悲哀と暗さをもつ。人間の闇である。他人の自慰を客体にすることは、基本的には耐えられないものである。射精は、霊魂の一部を捨てることだ。と古代ローマの医学者ケルススは言い残しているのだが、これは詩的共感(ポエジー)の一部を捨てることになるだろう。精子が泳いで振動すると電磁気エネルギーが発生する?その電磁気エネルギーこそが性エネルギーでおり、射精するとエネルギーを保持できない。
涅槃寂聴。死すらも無であると悟り、生きようとする欲の執着を手放す。洗脳でいうところの、アンカーとトリガーの関係を全てデプログラミングする。すると、わたしは、ただの世界の認識者として存在することになる。
マ二リウスは、わたしたちは生まれるやいなや死にはじめている。終わりは始めにくっついているものだ。という格言を残している。フロイトは分娩のことを、精神分析的に飛び降り自殺という風に象徴的にとらえていたらしい。
ショーペンハウアーは、生きようとする意志自体は、個体が死んでも子供のなかに受け継がれていくという。「意識を生み出し維持したところのものはなくならず、生命は消えるが生命において顕現した生命の原理までともに消えるわけではない。だからこそ自分の中にはまったく不滅不壊なるなにかがあるとの確かな感じが誰の心にも沸いてくるのだ」と彼は言っている。その感覚があるからこそ、人間はいつか必ず死ぬという普遍の真理を常に考えずに済むのかもしれない。また、人間は赤子みているときに、かつて死んだ人間の生きようとする意志を薄々感じ取っているのかもしれない。
抽象的な空間に対して身体性を伴った臨場感を感じることができるのは、IQの高い人のみである。IQの高い人は、越境的に、一見共通点のみえないような複数の概念を結びつけて考える知性が高い。そのため、性的なメタファーに気づくことが、比較的多い傾向があり、その性的なシンボルについて考えているときに、体性感覚でリアリティを感じ取っているので、いわゆる、変態であることが多い。例えば、時計の針を見たときに、「長針と短針が追いかけても、なかなか重なり合えないもの」というように性と結び付けて捉えたとして、そこに、新体制の伴う臨場感があるので、性的な興奮が得られやすい。これは、あるゆる性的倒錯に共通している感覚なのではないだろうか?僕の場合、性的なメタファーを考えたり気付いたりすることは比較的多いのだが、体で感じることができないので、変態にはなりえず、いたって性癖は健全である!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
中性的な女性ほど車を乗り回しているイメージ??
馬車は、上下に律動的に動く。まるでピストン的だ。ホメオスタシス的洗脳感。
生というのは、死の延期に他ならない。フロイトによると、人間には快楽原則というものがある。反復強迫。生の欲動は、個体が死んでも子孫に生きようとする意思が受け継がれていくことにより、死を延期すること。しかし、いつかは人間は滅びるので、結局は死を目指していることになる。対して死の欲動タナトスは、直ちに死のうとする欲動である。人間が自罰的になったり、体に悪いことをあえてしたりするのも、タナトスが関係している。
人間は太古より、闇をおそれて光を信仰していたという。闇をおそれるのは、身の危険につながるからというのが大きい。死を恐れている。光がめぐってくると、安心する。セックスが死の代弁行為であるのは、ピストン運動によって死に近くなったり遠くなったりのリズムがあり、ホメオスタシス的体性感覚においても、死がせまるような間価格が起きているからではないだだろうか?
サミュエル・バトラーは、死においてわれわれは生命をうしないはしない。われわれはただ個人性を失うだけであるだ。それ以降、われわれはわれわれじしんではなくて、他人のなかに生きる。
この名言は、遺伝子が子孫に受け継がれるという捉え方もできるし、ショーペンハウエル的な生きる意志が繋がっていくという見方もできるが、子孫を残さずに亡くなった人のことを含む名言であるはずなので、おそらくは、実在はなくなるけど、他人の脳の中に存在自体は残り続けるという意味でとらえるのが健全だろう。
進化心理学の本で読んだのだが、人間の性形態は本来は乱婚であったとされており、女が喘ぎ声をあげる理由は、性交中に魅力な声を上げることで、他の男をおびき寄せて、複数の男と交わることによって、子宮のところで、複数のオスの遺伝子と戦わせることで、もっとも優秀な遺伝子を選別していたのではないか?という仮説がある。ちなみに、男根にはカリ高と言われる形があるが、カリが大きいことによって、ピストン運動の時に、他の男を精液(精子)を外に掻き出して自分の精液を届ける役割があるのだと言われている。
道徳的センスとは、何が道徳的なことなのかを問い続けるセンスである。品行方正な人は、自らの善行に満足してしまうので、何が道徳的なのかを考えなくて済んでいるという不道徳に陥っている。罪と罰のラスコリーニコフは、良心に従って罪を犯したことで、道徳的センスを発揮している。世間の色調に浸っているうちは、道徳的問いなど生まれにくい。
人間は、何か本人にとってどうしようもないものに向き合わざるを得なくなっている人に惹かれやすい。死はまさに、魔術的な魅力を生む。
人間は、だれでも、いつか死ぬと知っているにも関わらず、自分以外のすべての人は死ぬものだと思っている。どれだけ機械的に人間を平等にみたとしても自分だけは特殊紙しないわけにもいかない。自分だけはなぜか、いつか死ぬということを免除されていると思ってしまうものである。しかし、そうしないと人間は生きられないものである。死を直視・凝視することは誰にとっても不可能なことである。かりにできたとしたら、生物が根本的にすべて楽観主義がベースになっているという前提が崩壊する。
女は他の女の美点を認めたくない。女は男に負けても多くの場合なんともないが、女に負けることには耐えられないや。、
女は他の女を通して、自分の醜さ悪さを知っているが、自分自身の声に直接耳を傾ける観察眼は欠如している。
犯された女の肢体とは死体のことではないだろうかん
人間の本質は絶望であるとキルケゴールいう。
ジョンスチュアートミルというフェミニストの哲学者は、女性の解放にて、「第一に、男性の精神的活動は遅いと予想される。思考は女性ほど機敏ではなく、感情もすぐに湧き上がらない。大きな身体は完全に活動を開始するまでに時間がかかる。一方、いったん完全に活動を開始した男性の脳はより多くの作業に耐えることができる。最初に選んだ路線に粘り強く取り組み、行動様式を別のものに変えるのに苦労するが、ひとつのことをしている間は、力を失ったり疲労をかんじたりすることなく、より長く続けることができる。」と述べている。これは、体感的に理解できる。例えば、将棋のプロ棋士なんかだと、女性のプロ棋士はいまのところいないのは、将棋という活動は、一人で多くの作業や思考に耐えることを希求するということも関係しているだろう。将棋の場合は、そもそも男性有利な頭の使い方が求められるものだと言われているが、プロ棋士の羽生善治九段によると、将棋における男女の能力差はないらしい。やはり、ひとつのことを粘り強く取り組み続ける能力において男は優っているからというのが大きな要因なのではないだろうか。反対に、男とは違って女の脳みそは、右脳と左脳のコネクティティが強く、ものを素早くこしたり、細かいことに気づいて、機敏に対処したりする能力だろう。女は、男に比べて一つのことに粘り強く取り組む能力は劣るが、反対に、多くの対象の変化に対応する、素早くてマルチタスキング的な能力は秀でてている。とはいえ、女性は、将棋などの局面において、大局的に盤面を見て考えることが難しい場面が多い。局所的な範囲の対処に意識が焦点化されやすい脳の特性を持っており、その場面で感情が引っ張られてしまうと、いくらマルチタスクが得意な脳であっても俯瞰するための思考への切り替えが難しく、歯止めがかない。アグリコラなどのゲームで例えるなら、物乞いを防ぐための食料供給が火急を要する場面で、そのことだけに意識してしまい、効率よくゲームを計画する思考が働きにくい。
悪人が人をだますときに、綺麗な言葉を使うのは、道徳法則が機能しているからかもしれない。
道徳的な人であれば、社会的に善とされていることや、相手が喜ぶであろうことをやすやすと実行することができない。それにもかかわらず、ほとんどのひとは、やすやすとそれらを実行できてしまう人にコロッと心を許してしまう。道徳的な人は、何が良いことなのかを無意識的にも意識的にも日々考えており、相手のこともそういった自分なりの良心や善悪の判断を適応してみることができるので、ほんとうに信用できる人を見分けるセンスが発達していく。実は道徳的であることは、護身術にもつながるのである。多くの人間が道徳的じゃない人を選んでしまうのは、真実よりも刺激を求めるからである。人間は、基本的に相手を見下していないと支配できない。自分が相手に支配されていることに気づいて、自分が対等に見られいないという理不尽に憤りを感じて、洗脳解除を図ることができなければ、いつまでも自己欺瞞のステージで踊り狂う機械仕掛けの人形のままである。ドラマツルギ―ーなんて幻想だ。おててつないで踊り狂う社会なんて御免である。
ぬいぐるみで遊ぶ女という現象は、女とぬいぐるみが客体であるが、害がないから安心できる?
女は、本当に誰かを好きになったらメンヘラになってしまう。女はメンヘラだった。
天才は創造性、秀才は再現性、凡人は共感性にこだわる。それぞれの世界で戦っている。秀才は、王道にこだわり、奇策は王道に勝てないと考え、超人への道である「過分な野心」は身を亡ぼすという論語のような教えに固執する!!!!たとえ、どれだけ自分のコンテンツを積み重ねたとしても、再現性の世界から出ようとしない秀才。奇想天外であることよりも、王道、再現性を重視する。実証されていることを重視する。哲学よりも科学的常識を重んじる。(決して科学を否定しているわけではない。)。また、秀才は、生まれつき凡人であり、教育環境などで優秀化している。
天才は、創造性を重視する。固執する。枠組みや文化がくだらないと考えるのはASD的天才というより、天才である。天才の集中力は、どこに固執してるか分からない非典型的な過集中となって表れる。それは、いっけん、ぼーっとしているような状態でも、脳内は驚くほど活発かもしれないので、見た目で判断は難しい。統合失調型パーソナリティ障害の天才のそれ。天才は、局所的な集中力が本質的に高く、抽象度の高い空間に、身体性を伴った臨場感がある。「時間と空間から対するコミットメント」が高い。時空への意識的な解像度が稠密で体を追い越しているがゆえに、かえって鈍間な印象を周囲に与えることも多い。一秒も無駄にしたくないという感度が鋭敏であり、その意識が自空間にひらけているゆえに、極度の自己犠牲家であり、変態であることが多い(俺の仮説でしかないが)天才は直感で真実にたどり着くが、説明できるとは限らない。一般的な説明能力は、論理性に優れた秀才の方が優れていることが多い。天才と秀才は相性が悪いことも多い。秀才は、直感で真実にたどり着く能力は低いの、IQ的な理解である、理にかなった説明ができないと理解してくれないことが多い。また、嫉妬ややっかみなどもある。秀才は枠組みの中でズレることはあるが、天才は、枠組みそのものを破壊的に創造する。存在と生成の形而上学。秀才は、天才の中にある思考の絶対法則を、深くは理解できない。日本のアイドル業界についていくら学んでも、秋元康の「こうすれば上手くいく!」という「思考の絶対法則」があまり分からない。あくまで、これまでうまくいった事例の再現の世界のなかで、ビジネス的な勝負のやり方を学び自分のものにしていくが、他の人ができないことをやってのける印象は薄い。基本的に大衆にとって、創造性は分かりやすく認められる形になっていない限りは理解できない(漫画や大衆音楽など)ので、理解しやすい再現性の領域で勝負している秀才のことを天才だと思っていることも多い。大衆に受けることが一般的な成功や金儲けであり、ビジネスや純粋なお金儲け自体が、再現性の領域だとすると、秀才や凡人のほうが、天才よりも金儲けが得意な傾向がある。ちなみに、実績のある小説家よりも、実績のないギリシャ神話の踏襲を中途半端にしかできない小説家が、教室を開いて荒稼ぎしていたりする例もある。人間は、ダニングクルーガー効果(自分の能力の低い分野ほど、過大評価しやすい)的にみても、自分の才能が或る程度ないと、その分野での違いがわからない。人間は得意不得意があるのだが、得意な分野でないと、違いがわからない。例えば、僕は社会性の才能がないので、自分の社会性の低さに、イマイチ感覚としてピンとこないところがあり、どうすえれば社会性を上げられるのかも良くわかっていない。これと同じで、秀才と凡人は創造性で勝負する才能がないので、創造性で勝負できる人や、勝負されている何かを、独自の判断で見抜くことはできない。せいぜい、有名になってからでないと理解できない。だから、わかりやすい世間的な評価軸でしか、人を測れないため、「例外的な存在」である「天才」を理解できないのだ。スティーブジョブズは、世の中には、天才かクズしかいないと思っていたようである(?)また、アインシュタインは、凡人の役割は、天才をサポートすることだと明言している。しかし、今この瞬間にも、世界のどこかでは、天才が誰にも認められずに死にかけている。大衆凡人が、凡庸なものばかりを認めて安寧に浸っているからである。価値のあるものを見殺しにしているからである。一言コメントで責任回避しているからである。大哲学者は、自分の思考の絶対法則を実践・論証するために、膨大な情報摂取を大規模に実行する。普通の書籍哲学者や、哲学研究者の多く(俗な哲学入門書や新書などを書いている人など)は、読書をしすぎて自分で物を考える能力が衰えている。(ショーペンハウエルの読書について岩波文庫)。黒板に、雑多な知識を詰め込んでも、思考体系としての板書としては失敗している。このような黒板が、哲学研究者や読書をしすぎて考えられなくなった情熱の欠けた多くの教養人の頭の中なのだろう。ニーチェは、「おのれの問題に人格を賭して取り組」なのか、「人格はそっちのけ」なのかが、思想家を分ける、と述べている。哲学は、病気でなければ、一瞬たりともできない。否、病気の刹那しかできない。哲学者の脳内は、知識のコネクティビティが有機的に構築されており、ちらばらない一つの思考の絶対法則的な宇宙のなかで体系化されているだろう。これは、哲学者だけでなく、越境的思考に優れた天才の特徴といえるかもしれない。天才は確かに凄いのだが、天才同士で争っていたり、強いものを否定しすぎて、本当に叩くべき腐った大衆を放置することは間違っているところもあると思われる。特に哲学者は、自分正義な人が多く、他人を容赦なく叩いて断罪できるだけの思想を持っているので、論敵と戦ってしまうが、本当に戦って鼓舞するべきなのは大衆である。最近のインフルエンサーも政治家を叩いている人が多いが、まだ政治家は責任を負う立場ではあるので、責任をなるべくとりたくないだけの大衆を目覚めさせて、社会の弱体化を防がないことには、日本は終わる。ちなみに、人間の知的能力に大差は無いと考えている人や、頭がいいも悪いも存在しないという考えもある。人間の短所と長所のバランスはしっかり取られるようになっているのかもしれない。知的障害の人にサヴァン症候群が見られることもある。また、IQは高くなくても、ある種の頭の良さは一頭地を抜いている人もいる。芸術的な才能だって一つの頭の良さだし、性格的な知性や、コミュニケーション能力、共感能力もそのうちの一つだろう。また、天才というものは存在しないという考え方もあるにはある。(まぁ解釈の一つとして)そのため、女と男のどちらが頭がいいかという話も、別に無理して決着をつけなくても良い気がしているのだ。どんな天才にも、悲しきことに限界がある。ニーチェは、「曙光」にて、遠くへ大胆に飛ぼうとするどんな鳥たちも、いつか疲れ果て、それ以上飛べなくなって岩礁にうずくまるときがくると言う。われわれの偉大な先駆者たちもみなそうだった。「私も君もそういう成り行きになるだろう!しかしそれは私にとっても君にとっても何の関係があるだろうか!他の鳥がさらに遠く飛ぶだろう!」と述べている。すべての考えるものへのエールである。天才にも限界はある。ニーチェ自身が挫折に塗れた哲学者であり、自分を踏み台にして高みへ上って行けと、後の思索するものを鼓舞しているのだ。ニーチェは乗り越えなくてはならない思想家である。自分の身の丈に合わない目標や野心は、自分の身を亡ぼすとはよく言われた話だが、それを乗り越えるのが限界を超えた天才であり、絶えず超克し続ける超人像ではないのだろうか。天才には限界があることを大衆凡人は知らない。大衆凡人は、遠くからみる天才が、身近だと人間だと実感しないので、身近な天才を見抜けずに見殺しにする。凡人は、遠くからみる「世間的に評価されている天才」が何気なく行った行動すらも深読みをし「この人は遠い未来を見据えている!先を見通して行動している!」などという天才の普段の些末な言動を深読みするので、身近にいる天才の、本当に何気ない言動を軽視してしまいやすい。ただ、評価されている人を評価するためにこじつけているだけにも見える。最も優れている少数派の人たちは、常に謙虚であり、謙虚であることによって、金儲けが難しくなっている。金儲けをすることは、最も優れている者たちにって、自分の功績に見合わない特権や評価を受け、それが自分には見合わない、釣り合わないと感じるので、謙虚になりやすく、自分がいい意味でも悪い意味でも正確に評価されているわけではないと感じるので、謙虚さを失うような評価を受けるための行動が難しい傾向がある。偽物というのは、はじめは過大評価されても何の痛痒もないことで、実際より大きな特権や力を得るようになってしまい、その大衆にウケている状態が、自分を含めて偽物の病原菌をまき散らしていることに、どこかで苦悩を抱えながらも、自分の中途半端さに目をつむって表面的な社会的得を稼ぎ続けていく。
女は男とは違って、女というだけで性的に価値をもっている。男は、ただ性別が男というだけでは性的価値がない。(その共同体にその男しか男がいないなら別だ。共同体の中で最も優れたオスを女は選ぶので、男が一人なら誰でも選ばれる)女は、見下している男からの傷つけられることがない。また、どれだけ誠実な言葉を投げかけても、見下されている限りは、「この男何言ってんの?」としかならない。それにより、男の精神は苦悩にみち、女は、大切なものを見失い続ける。人間は、基本的に、尊敬している人の言葉は信用して、軽蔑している人の言葉は信用しない。(これは道徳的な人間でも基本的には例外ではない。しかし道徳的な人は信用はすぐにはしなくても必ず葛藤する)女は、クズ男からの軽薄で誠実性のない言葉を信用し(騙されたままでいたい)、軽蔑している男からの価値のある言葉、信用に値する言葉、正しい言葉を軽視し、すぐに頭から追い出してしまう。それによって、女は人生に気づくまでに時間がかかり、情緒も磨かれないままに時間が経過し、かつては肉体的な女性的魅力によって相手にされていただけの、情緒の腐ったクソBBAが爆誕する。
女は普通の男では満足できずに、人生で一度は、クズ男のとりこになってしまい、結果的にクズ男に優しくされずに、サウシードックのシンデレラボーイでも聴きながら刺激的なクズ男に弄ばれる可哀想な私という下劣なセルフイメージの自己憐憫に浸ってしまう。自分がただの、通俗的な肉体的・外見的魅力だけで男に相手にされているだけの人間的・情緒的な魅力のない俗物女でしかない分際で、普通の男を軽蔑するのは、理不尽である。!!賢い男が結婚相手に美人を選びにくいのは、顔だけの関係は長続きせず、基本的に情緒が磨かれた女性(素朴な菩薩性)に惹かれ、その女との関係の方が、長期的に良いことを知っているからである。
女が、よく「優しい男が好き!」とほざき散らすのは、これまで好きになった男に優しくされなかったからであり、優しくない男を好きになってきたから、次は優しくされたいというだけであり、実際に優しい人が現われても、大抵の場合は、見下して恋愛対象から外す。しかし、本当の意味で優しい人(自己保身による優しさではなく、責任を負ったうえでの強さによる優しさ)を持っている人もいるので、彼のことは女側も大切にすべきである。優しいという意味は、辞書的には、「繊細な感じがする」という意味なので、強そうという意味とは、かけはなれている。
女は、基本的に社会で成功している不細工な女性のことが好きである。なぜなら、女性的魅力(繁殖価値)では自分の方が勝っているのに、上手くいっているということは、自分にもチャンスがあるかもしれないという希望を持っているからである。渡辺直美の女性人気が高いのは、渡辺直美が女を捨てて成功していることで、見下しながら応援できるからである。世間の女のほとんどは、渡辺直美よりも性的魅力が高い。(繁殖価値が高い)にも関わらず、「有名な女が男から人気」「民主主義的に強者」であることによって、女に偶像的な勇気を与えることができるのである。これは、女特有の客体同士の共感的な感性も関係するかもしれないが、僕は残念ながら男なので、よくわからないのである。しかし、ニーチェは、ツァラトゥストラの序説で、尊敬と軽蔑は同じというようなことを語っている。(ツァラトゥストラが語っている)これが真理であるならば、女は成功している同性の不細工を、尊敬と軽蔑の入り混じった目で見ているのだ。そこに道徳的な葛藤はあるのだろうか?
ルッキズムについては、
きっと人間社会は最大公約数的に動いているはずである。母数が最も多いのは大衆なので、大衆に最適化された社会が運営されているはずである。
死を怖れることは、あまりにも多く生に尊敬をはらうことである。という格言をジョウフロイは残した。反出生主義の哲学的感覚が強まることで、死への怖れが増大することもあり、それによって生を肯定してしまうというジレンマを抱えることになる。しかし、そのジレンマからは、皮肉にも死んでしまうことで解放される。人間は死を意識するほど、種の保存に動きたくなってしまう。自分という個体が死ぬことを意識すると、子孫を残したくなってしまう。反出生主義を深めれば深まるほど死への意識が深まり、自分の性慾に苦しめられるということはありうる話である。子孫を残しても残さなくても、必ず失望する運命だ。
女は初めて関わる男をその日のうちにいずれ恋人になるかもしれない相手か、そうじゃないかを判断する。一度見下されたら、逆転させるのは極めて困難。
女は、今の彼氏より良い男が現れるまでは、今の男をキープする。そして捨てる。気まぐれ不道徳クズだから。
オルテガは、品位を失ったものは、生ける自殺者であると述べた。品位とは道徳心も深く関係している。女は、男から「この女しかいない」と思われて執着されることを死ぬほど嫌う。弱いオスは嫌い!少し優しくしただけで、惚れられるのは迷惑なの!!!!気持ち悪い!!女子会でネタにしちゃったの!!!!笑いものにしたのよ!!!でも人を笑うだけ、笑われるだけの人なんて存在するしない。私もきっとどこかで笑われているんだわ!!!!!!!!!ほとんどの女は、相手の男が自分のことしか好きじゃないと分かったら価値を感じなくなりやすい!尽くしてくる男もイヤー!自分の弱さを棚に上げていることに気づいたころには、お伽話の悪役みたいな若い女に嫉妬狂うモンスターBBAが爆誕!!!女は運良く男を通して道徳的に高まることができたとしても、中途半端な道徳しか身に付かないし、その頃にはB.BAになっちゃってるの!!!可哀想!!!私は哀れな乙女なのぉ!!!女であることは、栄光と対極の存在なの!!女に生まれたことは実は不幸だったの!!人間は弱い生き物なのぉ!私だけじゃないのぉ!!他人を踏み躙ること、暴力性こそが人間の本質なの!人類に愛と平和なんか100万年早いの!自分も含めて全ての人間を踏み躙らないと生きていない人間の性にもう、うんざりしちゃうの!あーん!柄にもなく本当のことを言っちゃった!私らしくない!!人間の一生なんか、誰にとっても理不尽の極みなのぉ!人間社会なんか虚しさの塊でしないの!人間は互いに歩み寄って話し合えば分かり合えるなんてありえないの!綺麗事なの!大哲学者だって病気なの!敵の哲学者に一定の敬意を払いつつも、相容れない存在なの!仲たがいとかすることもあったの!人間は、自分と同じ意見の人のことしか、ほとんど良識ある人間だと思わないものなの!頭のいい人たちが、争っているなんて、馬鹿げているの!強い者は強い立場にさえいれば、、弱いものに寛容なの!でもそれじゃダメなの!弱いものに寛容で、強い自分は責任を負うべきというノブレスオブリージュは確かに高貴な信念なの!でも弱い人を鼓舞しないことには、強いもの同士で殺し合って苦しい社会講座を作るだけなの!強いことも弱いことも不幸なの!世の中には意味不明さが飛び交っているし、納得できないことだらけなの!納得している人は奴隷だし、納得しない人は苦しいの!!責任を負わない人は奴隷だけど楽で得なの!私もその一人なの!!!!!!でも、私は本当に悪い人じゃないの!本当に悪い人は人前で自分が不利になることは言わないの!!葛藤もしているの!!損をしてでも、正しいことをする態度に道徳的に価値は宿るの!人前で安全無害なことしか言わない人や、自分が得することしか考えていない人こそ、もっと叩かれるべきなの!昔から人文学は存在しているし、ずっと発展しているのに、大衆は、浅い綺麗事しか受け入れないの!大衆が、「この言葉は深い!人生の真理だ!」と評価する名言なんか、たいてい浅くてどこかで聞いたような習慣の権化でしかないの!そんな浅ましい言葉で自分を説き伏せているうちは、自己観察なんて出来ないのぉ!!!本当に価値のある言葉が埋もれてしまっているの!
親は偉大なんかじゃない。世の中の85%くらい親は毒親。加害者は元被害者である。犯罪者は幼少期から自己肯定感が低い。そもそも人間が人に被害を与えてしまうことも、この世に生み落とされるという被害を受けているからだろう。
人間は他人のことを本来の意味で無能だとは思わない。
本当の意味での反出生主義になっている人は、四六時中、反出生主義の思想が世の中の多数派になってほしいと強く願って、広めたくてしょうがないと思っている状態になる。それは、かなわない願いであろう。人間の豊かさは気にしないでいられるものの数に比例すると教いたものがいる。反出生主義は、気にすることだらけになってしまうので、本人の幸福度は低い可能性が高い。
女は悪いことしている時が、一番女として輝いている!女の色気は悪そのもの!最近、自称ぼっち系女性YOUTUBER(弱者男性ターゲティングのゲス女)が、箕輪厚介とかいう詐欺師と不倫していたことが話題になったが、女は悪いことしているときが、いちばん輝いている!やはり女は悪だったのである!
独創的な才能によって到達できる思考のほとんどすべては、すでに長い年月を経て到達されている。ジョンスチュアートミスの女性の解放に書かれていたのだが、この言葉は、独自の哲学概念を体系化したほとんどの哲学者にいえるかもしれない。
当たり前の話ではあるが、生まれてこないほうが良かった、いくら願ったとしても、すでに自分はこの世に生まれてきてしまっているので、絶対に叶わない願いであり、絶対に得られないものを求める苦しみを味わい続けることになるのだ。
ニーチェは生を肯定する哲学概念を打ち出した。同じものの永遠回帰という。単に永遠回帰ともいい、永劫回帰と言われることもある。ニーチェは、一つの人性を含んだ、この宇宙全体ざ、時の流れの果てに、ぐるっと回って、今と全く同じ状態へと戻ってくるのだと考えていた。宇宙全体は、いわば始点と終点が繋がった環のような時間を巡っており、今ここで起きていることは、まったく同じ内容で、これから何度も繰り返し起き続けるということだ。永劫回帰について解説される時に、よく用いられる例えとして、ビリヤードがあげられる。ビリヤードは、一見バラバラに見える運動だが、幾何学的な法則性のもとに動いている。猿が途方もない打鍵を重ねればシェイクスピアを書き上げるのと同じく、ビリヤードも途方もない数のショットを繰り返せば、同じ球の配置に戻るのである。ビリヤードも含み込んだ、宇宙に存在するすべての力の総量は一定であり、有限である。そして、それらの力の組み合わせのパターンもまた、果てしなく多いであろうが、有限である。これに対して、時間は無限である。時間の流れに終わりはないので、果てしなく遠い未来において、宇宙に存在して得る状態のパターンはは多品なく使い果たされ、過去に存在した状態とまったく同じ状態が宇宙に出現せざるを得ないことになる。今と同じ状態が、将来ふたたび宇宙に訪れるのは確実なのであり、永遠に回帰し続けるのだ。だとしたら、今この瞬間は、全く同じ内容で持ってこの宇宙に戻ってくることになる。だとしたら、私はこの瞬間が何度戻ってきても、それで良いと思えるような生き方をしないといけない。永劫回帰という概念を少しでも確度をもって認識しているのならば、この瞬間が幾度も繰り返されるなんて嫌だと思うことが少ない人生を送るべきなのだろう。しかし、ニーチェは、永劫回帰のことを永遠を表して次のような素晴らしく含蓄のある言葉を残している。「もし私たちがたった一つの瞬間に対してだけでも然りと断言するなら、私たちはこのことで、私たち自身に対してのみならず、すべての生存に対して然りと断言したのである。なぜなら、それなけで孤立しているものは、私たち自身のうちにも事物のうちにも、何ひとつとしてないからである。だから、私たちの魂がたった一回だけでも、絃のごとくに、幸福のあまりふるえて響きをたてるなら、このただ一つの生起を条件づけるためには、全永遠が必要であったのでありーーーまた全永遠は、私たちが然りと断言するこのたった一つの瞬間において、認可され、救済され、是認され、肯定されていたのである。」というものだ。例えば、死ぬ直前に人間は、とてつもなく気持ちのいい絶頂(エクスタシー)を味わうことになるという。その気持ちいい感覚の只中で、この気持ちよさをもう一度味わいたいと思いながら死んだとしたら、その時点で、すべてが、是認され、救済されら認可され、肯定されするのだということだ。つまり、どれだけ悲惨な人生だったとしても、死ぬ前の絶頂だけで、すべての苦痛を凌駕するといえるのだろうか。
私の生は孤立していない。それはすべてのものごとと、空間的にも、時間的にもつながりあっている。まず空間的に見てみれば、もし私がいまこの瞬間に対して「イエス」と言うことができるならば、それは私の存在に対してのみならず、私以外のすべての存在に対してもまた「イエス」と言ったことになる。次に時間的に見てみれば、もし私がいまこの瞬間、幸福に打ち震えたならば、この瞬間へと流れ込んでそれを準備したすべての過去の出来事、そしてこの瞬間から引き続いて起きるであろうすべての未来の出来事に対して、「イエス」と言ったことになる。このようにして、私がいまこの瞬間に対して「イエス」と言うことによって、過去・現在・未来にわたるすべてのものごとが全体として肯定され、救済されることになるというのである。 すなわち、宇宙が永遠回帰しているのだとしたら、宇宙を全体として肯定するためには、目の前のこの瞬間のふるえるような幸福を本気で肯定し、それが何度繰り返し起きたとしてもかまわないと偽りなく思うだけでよいというのである。ここには、宇宙の永遠回帰が私の生に意味を与えるというだけでなく、私がこの瞬間の生を肯定することによって宇宙の永遠回帰そのものが肯定され救済されるという往還構造が出現している。
宇宙は全て連関しているので、今の中に全てが詰まっていると考えられる。ゆえに今を然りと言うことで、全宇宙が肯定されることになる。これは、ある訓練をした人間の脳が、全宇宙を一瞬で体験するように。人間の脳の中の宇宙は全てを肯定する可能性を秘めた小宇宙であり、宇宙ともまた連関しているのである。
本人のイエスの度合いが心奥から膨れ上がるような肯定であった場合は、すべての人間の小宇宙を含み込む全宇宙を肯定したことになり、死ぬ直前のエクスタシーに一人でも首肯させるだけの絶大な力がもしあるのなら、永劫回帰的な意味で、生まれてこなかった方が良かった人間など存在しないことになる。例え、死ぬ前やエクスタシーを含めて否定的な人間だらけだとしても、たった一人がイエスを断言すれば、全てが許されるのだ。極端な話、人類史上、生を肯定する人間がたった一人だけ存在し、その他すべての人間が不幸の極地の悲惨な人生を送った場合でも、すべての生が肯定されるということなのだ。たった一人の、たった一つの幸福の肯定が、すべての苦痛を救済し、愛することになってしまうのだ。それは、苦しみを否定するということではなく、快楽の準備としての根となっていた苦しみするも含めてありのままに力強く肯定するという話である。おそろしい話である。ニーチェは、この世のあらゆる価値を踏み躙ってもいいと思っているかのようである。ニーチェによる永劫回帰の思想は、生を肯定するだけではなく、欲するところまでを希求する。それは、運命愛の説明により理解される。とはいえ、運命愛と永劫回帰は根本の部分は同じだし、ニーチェも割と同じものののように扱っているところがある。運命愛の思想は、ifの話すなわち、こうだったら良かったのに、という考え方を良くないものとして、今のありのままを愛する・肯定するものである。そのため、もし、「たった一人だけイエスを感得するものがおり、そのほか全ての人が悲惨極まりない人生を送ったとしても、全ては救済されるということか?」という先ほど挙げた極端な例も無効化されるのである。運命愛と永劫回帰は、似たような思想だが、合わさることでより強固になっている。この二つの思想は、少しでも不幸が存在した大問題だと考えるシャーペンハウアーとデイビッドベネターの反出生主義の論理と相反するものであり、ニーチェは、本質的に、全反生主義者の敵である!!ニーチェは、永劫回帰によって、一回の人生における一回限りの悲劇性・喜劇性などの決定的な性格を希薄にさせるという効果を持たせている。そしてニーチェは、一つのイエスを成立する上で起きた全ての悲劇を肯定するのみならず、全てまた戻ってこいと欲するところまでを希求する。これは、ニーチェの不幸を見殺しにできるどころか、他人の不幸を呼び起こすことを求めるほどの勢いの、冷徹無惨な極悪性が垣間見れる恐ろしい思想ではないだろうか?よく巷では、ニーチェの思想を「元気になれる哲学」などと紹介してしている人もいるが、表面的な見方でしかないだろう。ニーチェの言葉は本当は恐ろしいことこの上ないのだ。ニーチェ自身は極めて不幸な一生を送った。彼は、とてつもなく不幸な自分に同情するあまり、他人の悲惨な不幸を自分の生を肯定するために利用しようとしたのではないか。自分の不幸な人生を肯定するために、精神世界であらゆる価値を踏みにじろうとしたのではないか。永劫回帰の思想は、今のイエスのためには、過去のあらゆる不幸を肯定して、また欲することを希求するが、それと同時に、未来に起こるあらゆる不幸を肯定して欲求することも希求するので、非常に恐ろしい思想にみえるのだが、その欠点を突いてしまえば、もはや永劫回帰の思想の原型をとどめない何か別の思想になってしまうだろう。ニーチェの想定した本来の意味での、永劫回帰によると、未来は過去に回帰し、過去も未来に回帰する。時間の流れが未来から過去に対しても流れていると考えることができる。そう考えると、未来が素晴らしいものだと確信することができれば、その未来に至る過去は、全て素晴らしい未来は続く素晴らしい時間と解釈できるので、未来に希望しかなくなる。しかし、この考え方に辿り着いて哲学的実践的に進む人が少ない以上、ただの机上の空論の域を出ないだろう。永劫回帰が正しいかどうかの実証はかなり難しいが、少なくとも馬鹿げた話ではなく、ある程度の説得的確度は持っている。そのため、もし永劫回帰が真実なのであれば、反出生主義が実現して、人類が緩やかに全滅したとしても、また、人類は生まれてしまい、同じだけの苦痛が繰り返されるのである。少なくとも現代で実現したとしても、2000年以上の人類の血塗られた悪夢は再発するのである。ちなみに、永劫回帰は、宇宙を再現性でとらえようとしているように個人的に見える。
ニーチェ自身が、ルサンチマンの塊であったために、永劫回帰という自らの思想によって生の一回性を利用して世界への復讐を果たそうとするルサンチマンを無効化し、ルサンチマンを打ち消そうと画策したのではないだろうか、とクロウスキーは考えている。
ほとんどの女性にとっての関心事は、決して日本の未来を良くしようなどの、半径の射程が長い範囲の話ではなく、自分の日常生活において関わる身の回りの人々や、彼らから受ける印象などの集中する。その醜悪さは、井戸端会議の風景に如実に表れている。これは、女性が肉体的な現実主義的であり、反対に男性的な高貴な精神の避難所もとい、あえて苦しい生活を送って名声のための礎にするという「最後の弱さ」を持ちえないものである。夫が失業したことで子供と一緒に家を出ていく世俗ゲス妻の中に、「他人を不幸のうちに見捨てられない」という道徳性は皆無であり、せめて見捨てるのであれば、「自分も夫と同じ様に苦しまなくてはならない」という考えが浮かぶことはない!また、自分の信念を貫くために、あえてホームレスになるなどの選択肢が頭を擦りもしないのである。夫が失業した瞬間に、女は弱者切り捨てのモードで何もかもを捨てる癖に、自分が追い込まれたときのために、外形的に「可哀想!可哀想!」と撒き散らす醜態である。まぁ、女に生まれたことは、まことに同情すべき悲劇である。
SNSなどを見ていると、「ほんとうに頭の悪い女性を見たことがない!!!!男よりも女性の方が頭がいいぞぉ!!!!!」となどとほざいている人がいるが、自分にないタイプの知性を過大評価してしまう人間特有の誤謬が生み出した意見である。しかし、大半の人は損をしてでも本当のことを言うよりは、自分が得ができるポジショントークか、うっぷん晴らしの悪口をいうので、「女は頭が悪い!」や「女の方が頭がいい」などと言うのだ。個人的にはどちらとも言えないが、少なくとも女の方が頭がいいと言っておいた方が、お世辞であるけれど、女性慣れしている男に見られやすくなるので、女は頭が悪い!と言っているような、一般的に女性蔑視的にしかみえない人よりも、はるかに余裕のある男に見えてしまうだろう!!しかし、気骨のある女からすると、「女の方が頭が言い訳ないでしょ」と苦笑を浮かべることだろう。同性にしかない知性を当たり前だと錯覚し、異性にしかない知性を過大評価するのが人間である。誰でも自分の持っている才能は、他の人にも備わっていると思いがちである。だから、他人のことを本質的に自分より無能だと思うことがないのだ。世界で最も優れた人々が、まったく自信に欠ける一方で、最も愚かな人々が、強烈な情熱に満ち溢れている。ダニングクルーガー効果的に見ても、愚かな人々の方が他人を無能と断じやすいが、自分が無能であることにも薄々気づいているはずである。
レジンスターは、「苦悩の根本的価値転換」を述べた。これは、苦悩から創造性が生み出されるときにのみ、苦悩は人生の中で救済されるというものであり、ニーチェの永劫回帰の含意であると解釈できる「個人の幸福を支える構成要素の一部として苦悩をとらえる生の肯定」を前提に置いている論である。
何かの議論を決定づける際に、誰かの議論を知っている知っていないにかかわらず、考慮せずに結論が出てしまった場合に、その結論がたとえ一時的なものであるにせよ、特定の誰かの意見を考慮しないことで、その人の知的価値を踏みにじる行為だと解釈してみるとする。そうすれば、途端に、何か意見を述べること自体が、差別であり、膨大な数の人の意見を軽視していることになるのだ。例えば、軽薄なユーチューバーが軽薄なコメントを残してバズり、金銭的な報酬が入ったとして、その軽薄なことが軽視している数多の思想家の言葉を踏みにじってお金儲けをしたことになる。多くの偉大な哲学者や思想家が火の車で苦しんでいる中で、軽薄で通俗的なろくでなしが、他人の言葉の価値を冒涜しながら金儲けしていることは許せない。
斎藤孝という、教育家は、哲学者の言葉を、綺麗事に変換して本を書き、金儲けをしている。彼なりの信念があるのかもしれないが、ニーチェ哲学のことを「元気になれる哲学」と表現して金儲けする姿勢は、「ニーチェの怖さを知りながら、あえて本当の意味で有益な真実よりも、有害な資本主義的な得を優先しているようにみえる。」しかし、難解な哲学を、誰にでも分かるように優しくかみ砕いて解説する人は、必要だし、彼の実績や社会的評価は、僕の比じゃないので、彼を批判することは、もはやただのルサンチマンにしかみえないだろう。実際にルサンチマン的なところはある。
シンプルな疑問なのだが、地球滅亡などではなく、人類が、段階的に絶滅したとして、最後まで生き残っている一人の人間は、歴史上に名を残していると言えるのだろうか?歴史は、語る人がいなくなったときに、もはや名前が刻まれるという概念すらないのかもしれない。また、人類が滅亡する直前の最後の一人が、人類が存在していてよかったと思うのだろうか?自分の死をもって、人類史が終焉することを自覚したうえで、人類そのものを総合的に肯定することができたとしたら、人間は生まれてきてよかったということになるのだろうか。人類が生まれてきてよかったかどうかを決めていいのは、人類最後の人だけなのではないか?しかし、その人の判断に依拠してしまうということと、たとえ、その人が人類が生まれてきたことを肯定したとしても、誰もそれを確認することができないというもどかしさがあるのだ。人類最後の人間が、何か、物質的に、メッセージを残したとしても、確認するのは、地球外の、生命体なのかもしれない。もしかしたら、宇宙のどこかで、人類史の顛末をすべて記録している生命体が存在するのかもしれない。
親が出生をして、子供を虐待して、育児放棄をしていた場合、たとえ、将来子供が、幸福な人生を終えたとしても、毒親の罪が免責されるわけじゃない。
人間は、遠く離れている場所にいる人を美化しがちである。身近な人を軽視しやすい。たとえば、海外いる外国人を日本人が無条件で軽蔑するということはないが、日本に来た外国人に対しては、多くの日本人が冷たい。日本人が保守的な自閉的な傾向ということも少しはあるのかもしれないが、それでも、日本に来た外国人からすると、冷たさやよそよそしさ、蔑視を感じることは多い気がする。それは、世間の保護色ではないことによって共感できるからである。
女は雰囲気に飲み込まれやすく、周りの目を気にし、仲間外れになることを恐れる、被支配欲の強い弱者である。女がグループユーチューバーなどの和気藹々とした雰囲気に飲み込まれて、気付けば推し活のようなことをしている理由もそこだろう。まず、人間は、画面の中の世界と現実世界をうまく識別できない。なぜなら、人間は太古から存在するのに、画面の中の世界が誕生したのは、人類史の中では最近だからだ。人間は、画面の中の世界に対しても、現実世界のようなリアリティをもってしまうという業を抱えている。女は、和気藹々と談笑しているグループユーチューバーの様子をみることによって、自分もそのメンバーの中にいるかのような錯覚をする。しかし、自分はメンバー外であることは当然理解しているので、混乱して、まるで仲間外れになることを恐れてコミュニティに参加する女と同じような感じで、見続けてしまう。おそらくユーチューバーが、実際の日常的な談笑よりも、リアクションや共感を過剰にとることが多い傾向があるのも、洗脳的に視聴者に仲間意識を植え付けるテクニックなのだろう。人間は、コストをかけたものほどのめり込み易い。何度もそのユーチューバーを見続けてしまう。見ない時期があったとしても、いづれ、自分が仲間外れになったかのように錯覚して戻ってしまい、貴重な可処分時間を、他人の利益のために使うことになるのだ。カルト教団などでも、あえて最初から集団で新しい信者を思いっきり優しく扱ってから、急に仲間外れにするようなことをして、依存させるというテクニックも存在する。クズ男が女を依存させるテクニックとして代表的なものにも、似たようなものが多い。たとえば、LINEやどのメッセージのやりとりでは、そっけないけど、実際に話すとめちゃめちゃ優しくて安心するから離れられない的なのもそうである。ホストが用いるテクニック的なものも、だいたい似たようなものが多いだろう。女や大衆は、騙されているのじゃないか?と疑うこともあるのだが、疑い続けて真実を求めるよりも、幻想によっていたほうが、楽で得なのであるもちろん、騙されている本人がそれで幸せなのであれば別に問題ないという意見もあるのだろうし、大衆や女は幻想を追い求めており、真実が不要なのであれば、大衆に最適化された嘘として有益な面もあるだろう。しかし、その嘘は、一時的な益しか生まず、どれほど辛かろうと真実を追い求めることこそ、有益で誠実な態度である。
ニーチェの提唱した超人思想における、超人像に厳密な意味で当てはまる人間は、この世に存在しなかった。これからも存在しないであろう。あくまで理念なのだが、それでも、超人になりたくてなれないという絶望に打ちひしがれる犠牲者を大量に生んでいるというニーチェの加害性は存在する。ニーチェの言葉を、すべて自己肯定感につなげるように書かれた嘘だらけの通俗的な一般書が、巷に溢れかえっており、ほとんどの読者が書かれていることを真に受けてしまうことは、誠実にニーチェを読めていない態度であり、誠実にニーチェを読む人ほど、自分が超人と同一視できないこと、超人になるハードル(超克に至るまでの悲惨)を直視してしまい、絶望するのである。ニーチェ哲学を、あたかも「自己肯定感が湧いてくる哲学!、元気になれる哲学!」などという嘘で塗り固めて、ニーチェに対する誤解を蔓延させることで、金儲けをしている書籍哲学者気取りのクズが多すぎるということだ。皮肉にも、ニーチェをポジティブに誤読して、元気が湧いてきてしまっている数多の読者こそが、ニーチェ自身が最も蔑視した「善人」以外の何物でもないのだ。そして、善人をターゲットにニーチェの言葉を都合よく歪めて金儲けをする作家も、これまたニーチェが憎悪のまなざしを向けた「毒蜘蛛タランテラ」に他ならない。ニーチェの言葉は誰にもわからないほど難解であるが、少なくとも、ごく一部の超人候補者以外には、正しく伝わらないようにできており、超人に片足でも突っ込んでいるもの、誠実な読者ほど、苦しめられる構造になっているのだ。これは、ニーチェ自身も不幸の塊であり、自分が超人ではないことを知っているからこそ、超人という一縷の希望(?)を掲げながらも、道ずれにする人間という犠牲を強いたのであり、永劫回帰思想には、その犠牲を肯定するニーチェ自身の含意があるのではないだろうか。
ある事柄に対する「怒り」は、最も明晰にその人の生き方を露出するのだ。ある人が何に対して怒り、何に対して怒らないのか、何に対して猛烈に怒り、何に対して僅かに怒らないかぎ、その人の最も深い信念を示す。みんなが切れていること切れて、みんながなんとも思わないことにはなんとも思わない者には、ただ、世間一般の有象無象の一匹でしかない、凡庸な生き様が如実に現れている。自分固有の信念ではなく、説明不要なほどに蔓延っている、ただそこにいるだけの生き様である。
ニヒリズムに浸り、ついにはニヒリズムを超えて超人に至る者は、これまで誰もなしえなかった、徹底的な能動的ニヒリズムに至らなければならない。この世の全ての無意味さを徹底して見続けることは、これまで誰にもできなかった。無意味さの極地を見た者は、かえって能動的か生きる意欲に満ち溢れる。
良心とは、属人的な善悪の判断力のことであり、カント倫理学の大黒柱である、自律こそが、良心や道徳的価値の根源である。そう考えるとすると、宗教の教義のように、善悪の内容があらかじめて他律的に決められているものは、それが、普遍的法則とみなされるようなものであっても、信じてしまった時点で自律を失い、道徳的善が崩壊する。善悪の内容は決まっていないものであり、各々がそのつど理性の声を聞いて自律的に判断しなければならないのであり、あらかじめ善悪が決められている時点で道徳的善という価値はない。つまり、宗教は、カント倫理を剥奪する。
人間はいつか必ず死ぬ、ということは、明日にでも死ぬ可能性があるということなのだが、それの事実を直視すると幸福が崩れてしまうので、人間は、そのことを考えないようにしている。人間は、死そのものは直視できないにせよ、死ぬという事実自体は直視して考えることはできてしまう。それは辛いことだろう。しかし、哲学者パスカルによると、自分の死について考えることができること、自分が死ぬことを知っていることこそ自分の尊さを示すものである。つまり、「気を紛らわす」というほとんどの人がしている幻想への逃避行動をするのではなく、自分が死ぬことについて、それのみを考えぬくべきである。パスカルによると、「幸福であることを願い」気を紛らわすことに熱中し、自分の死を考えずに生きてそして死ぬことは、まさに「惨めさ」の極みである。意味も分からないままこの世に勝手に産み落とされて、死ぬことが決定づけられており、なおかつ、ほとんど誰もがそのことを自覚せざるを得ないにもかかわらず、幻想に逃げても、惨めであり、真実や不幸、死について真剣に考えたとしても、不幸はさけられないのだが、この世に生まれてしまうこと、産み落とされてしまうことは、やはり残酷極まりないことなのではないだろうか。
冒険家や旅行家ですら、広大な宇宙の中のちっぽけな星の中の、すべてに行くことはできないし、ほとんどすべての人は、地球のなかのごく一部でしか生活しない。世界はここまで広く、相対的に自分の小ささを思い知る絶望も存在する。
大衆は常に生贄を求める。普段から抑圧されている分、誰でも良いから踏み躙りたいのである。しかし、社会的に悪目立ちする行動をする勇気の強さはないので、なんとかして、社会的規範の枠組みの範囲で大義名分を得て、自分の身の保全を確保した状態で攻撃しようと待ち構えている。大衆によって持ち上げられている人物は、何かのキッカケで、手のひらを返されて裁かれる危険性を孕んでいる。ほんとうの賢者は、大衆からの評価など気にしないことが多い。大衆からの評価など、だいたい的外れだし、リテラシーのない畜群による、即席で捻り出されたような、すこしの刺激で流転するような浅薄を極めた一言コメントには価値はなく、それらに振り回されて苦しむくらいなら、(苦しむことで人間的な深みや情緒が磨かれることは多分にあるので、一概に悪いとは言えないが、、、)自分の絶対基準をルールブックにした方が合理的であるからだ。たとえ、表面的には深いお褒めの言葉を畜群から受け取ろうとも、眼光紙背さえすれば、その動機と思慮の浅はかさには気付くものだ。
人間は自分の必滅性(必ず死ぬ)を乗り越えるために、何もかも踏み躙るのとしか深いところでは考えていない、どうしようもなく醜い存在である。一人残らず醜い存在である。
官能の官という感じは、棺という字の右側である。
巷で、同情する兎(おぱんちゅうさぎ)が人気で女性ファンが非常に多い。自己憐憫に安心して浸れる客体というものに需要があるのだ。また、風俗嬢などの夜職の人に特に人気があるらしいのは、おぱんちゅうさぎも、自分も踏みにじられるけれど愛されたいという客体であることで、シンパシー(同情的共感) を安心して得られるからである。
プラトンの饗宴において、ファイロドスは、『エロスは偉大な神である、人間の間においても、神々の間においても、驚異すべき者とされている。それには幾多の理由があるが、なかんずくその発生(ゲネシス)のゆえに。けだし神々のうちもっとも古い者に属することは誉であるからである(と彼はつけ加えた)。その証拠には、両親というものがエロスには無い、散文家にも詩人にもそれを挙げている者は一人も無い。のみいならずヘシオドスはいう、太初にまず、カオス(混沌)が成り出で「さて次に成れるは永えにゆるぎなき万物の座なる、広胸のガイヤ(大地)とエロスと。」』
カオスに次いで、ガイヤとエロスとが生じたのである。カオスは神ではないので、エロスとガイヤが最も古い神々の一つであることは、多くの場合に解釈一致していることだ。母なる大地とは、エロスとガイヤの同体であるのか?_
人間の本性(原形)フュシスとその経歴について、プラトンの饗宴では語られている。実際原始時代におけるわれわれの本性は、現在と同様なものではなく、全く違っていた。第一に、人間の性には、三種類あったとされている。すなわち、現在の如く、ただ男女の両性だけではなく、さらに第三のものが、両者の結合せるものが、在ったらしい。それは、形態から見ても名称から見ても、男女の両性を結合した一つの性が存在していたのである。その形状は、球状を呈しており、背とわき腹とがその周囲にあったらしく、それから四本の手とそれと同数の脚と、またい頸(くび)の上にはまったく同じ形の貌を二つ持っていたらしい。そうして背中合わせの二つの顔にただ一つ頭部、それに耳が四つと、隠しどころが二ついった外見を呈している。この形状の性形態をなして存在していた理由は、男性が、本来太陽から、女性は地球から、また両性を兼備したものは月から、月も地球と太陽との両性に与っているから出たというものである。ちなみにクトゥルフ神話におけるムーンビースト(月の怪物)は、設定上性別というものがないらしい。文学表現的には、月はどちらかというと女性的なシンボルとして描写されることが多い。月経や月の満ち欠けの周期にも類似性がみられるらしい。名訳者小林秀雄が和訳した大詩人アルチュール・ランボーの一節、「海と溶け合う太陽が」は、さまざまな解釈が可能。海は、神話でいう「酒の神バッカス」や同一の神である「ディオニソス」を表していると解釈できる。ディオニソスは、”闇、激情性、女性っぽさ、詩的な遊戯性、音楽的な芸術性、気まぐれさ、嘘、子供っぽさ、本能の抑圧からの解放、個我を溶かす集団的な熱狂”などの象徴と解釈できる。反対に、太陽は、神話でいうところのアポロンを表しているとされます。アポロンは、”光、真実、視覚的な芸術性、自律的な個人、理性、客観性”などの象徴と解釈できる。海と溶け合う太陽は、夕陽が水平線に沈む様子として捉えるのが最も自然な解釈だと思う。その様子は、まるで形ある理性である太陽が、形を破り、気まぐれに理性を溶かす海に溶け合う情景として解釈しても問題ないだろう。ランボーは、「私は他者である。」という格言を残していることもあり、存在の境界の曖昧さというメッセージが含まれているとも解釈できる。哲学者のニーチェ的な解釈だと意識的な形のある個としての理性(太陽)と無意識的な母性としての深淵(海)が合わさることで、全体の中の一部になり、個人としての終焉を迎えるという解釈ができる。萩原朔太郎の詩の原理によると、音楽は正に「火の美」であり、美術はまさに「水の美」である。どちらも芸術なのだが、音楽は主観の芸術であり、美術は客観の芸術である。とするならば、美術は客体であり、「水の美」とは、客体としての美であり、まるで女のようである。海と溶け合う太陽における海は、やはり女のようである。しかし、文学上の音楽である詩は女性的である。この矛盾は、「海と溶け合う太陽」により、アニマアニムス的に解決するのでは?
萩原朔太郎によると、「詩は音楽と同じように情熱的で、熱風的な主観を高調するに反し、小説は概して客観的で、美術と同じように知的であり、人生の実想を冷静に描写しているところの美術」である。小説は本であり、フロイト的には女のメタファーである。客観的であり、客体であるが、主観を高調する要素もあるので、詩集というのは、美術の中にある音楽であり、女の母胎に宿った男の子ではないだろうか?
女の浮気はバレに食いのはなぜか?
男性のための女性の行動の動機は、無理してでも愛されるために頑張ろうというものであることがあり、自己犠牲的な献身行為は、結果的にはその男性からぞんざいな扱いを受けることにつながってしまう。そうなるように、女性側が結果を操作している側面もある。
自己肯定と自己犠牲とかえるかげんしょう。
めんどくさいエンパスな私は、いつもナルシシストに執着されてしまう。彼は私の嫌がることばかりする。
女性雑誌は、女性なら自己肯定感を奪って、頑張らなければ愛されないという嘘を押し付けている?愛とは与えものである、みたいな偽善が蔓延っており、鵜呑みにして尽くして方も存在する。
自分のことが嫌いで、自己肯定感が低く、なかなか自分を肯定することができない女ほど、与えすぎるほどの自己犠牲をして、自分を恋する(都合よく変えようとしてくる)だけの愛のないクズ男にぞんざいな扱いをうけ、翻弄されて傷付か続けることでしか愛恋をすることができなくなっている可能性がある。明らかに理不尽な扱いを受けているのに、それでも、「彼が変わってくれることを信じて、私の自己犠牲的な愛で変えてあげるしかない、私の愛しかない、という考えに陥りやすい。その考えは、真実から逃げて自分の心を守っているだけだし、他の誠実な男と向き合わない(自分を好きになった男を恐れている or自分なんかを好きになる男はレベルが低いと決めつけて見下している)ことで、理不尽で残酷な市場を作り出しているので、極めて不道徳的である。クズ男のモデルケースは、ダークトライアド(闇の三角形)特性を持っていることが多い。サイコパス。権謀術数主義マキャベリズム。ナルシシスト。の三代要素。ダークトライドは、短期的に多産性(一夜限り的な遺伝子拡散戦略)が得意である。ダークトライアドの多くは、自己肯定感の低い女を餌食にすることが得意である。自己肯定感がダークトライアド男に対して、「彼のために」していることは、自分のためにしている行為である。彼を失うことが怖いというエゴイズムでしかないので、お互いに愛がないことがほとんどである。自分を愛してくれる男を見殺しにするくらいゴミ女のことだから、クズ男のことも愛していないのは頷ける!。自己肯定感の低いゴミ女は、耐えることで相手のゲス男のことを愛そうとするのだが、実態はただ恋の恋しているのと何も変わらないので、自己欺瞞である。弱者の強さは、自己欺瞞と忍耐力の塊である。そもそも愛されるために、何かを自分がしなくてはならないというのが基本的に勘違いである。しかし、女は哲学ができないので、気付かずに、くだらない大衆女性誌などに書かれている「愛されメイク」「これで彼もイチコロ!」みたいな、まるで愛されるために、求められるためには、こうすることが必要です!みたいな嘘塗れの愛と恋をあえてはき違えた表現の「洗脳フレーズ」に踊らされて無駄にがんばったあげく、クズ男の浅はかな言葉を真に受けて舞い上がってしまうのである!がんばらなくても愛されることが本当の意味で愛されるということなのである!ありのままで愛されるのは基本的に女だけである。女は自分のことを愛してくれる男と向き合わずに距離をとるor見下して嫌う理不尽な考え方をしている。そのくせ、クズ男からの「愛している」という大嘘に舞い上がるのだが、最終的に年を取ってBBAになったらどうせ愛されないので、自業自得である!!。
どうせ私は、男が望むような女じゃないと勘違いしているような的確な自己分析もできない自己肯定感の低いゴミ女ほど、愛してくれる多くの男を見殺しにして、クズ男の虜になって道徳心も情緒も磨かれないまま、BBAになってしまい、本当に男が望むような女じゃなくなってしまうのである。若いころから、自分を愛してくれる男と積極的にかかわって道徳的に高まっていないから罰があたったのだ!!。女の賞味期限が短くて良かった!!
男は複数の異性を同時に愛することが女よりも得意である。女が欲しいという男の欲望は、すなわちすべての女が欲しいということと同義なのではないだろうか。
なぜ、女子高の男性教師は、不倫、浮気をしやすいのか?それは、自分のパートナーの女と関わっていくうちに、その女が年を取って繁殖価値が下がっていくのと比べて、職場にいる女子生徒は常に繁殖価値が一定の高い水準におり、教室という閉鎖空間に集められているために、性的に意識することは避けられず、どうしても女としてみないようにはできない中、家に帰って妻の姿をみると、どうしても繁殖価値のギャップを感じてしまい、余計に、学校の女子生徒に性的魅力を感じてしまうのである。基本的に、女は自分の属する共同体の中で最も優れたオスを選ぶ傾向があるので、女子高の男性教師はモテやすい(だかつのごとく嫌われる人もいるが、)ので、不倫しやすいのである。
自分を愛せない人間は、他人のことも愛せないというのは、当たり前の話。
自分を嫌いな女は、自分を受け入れていないからこそ嫌いなのであり、その反面で、自己愛が非常に強いのである。自分を受け入れられないという弱さが自己愛を強化してしまうというややこしい拗らせ方をしている人は多い(ぼくもその一人である)のだが、男の場合は、ただの気持ち悪くて自意識過剰な弱いオス扱いされるだけだが、女はめんどくさくても非常にモテてしまうので、タチが悪い。なぜなら、男の必至になっている様子は、女からみると気持ち悪いのだが、女が必至な姿は可愛いからである。自分を受け入れていない自己愛こじらせ人間ほど、相手に求めすぎるので結果的にテイカーになりやすい。それは、こじらせているせいで、他人が何を自分に求めているのかや、相手が他人に何を求めているのかを把握する余裕や能力が欠落するので、他人に手を差し伸べることが難しくなっていくことが原因の一つだ。
こじらせ女は、今よりも高い幸せな恋愛の理想をかかげることで、クズ男に翻弄されることが続き、結局いつまでも自分を愛せないまま、年だけを取って哀れなBBAになり果てる。最低限の恋愛をする機会を、多くの男から奪っておきながら、その犠牲の上で、「いい男がいないんだよね~」みたいに、ほざき散らす醜態には、蔑視を避けられない。
こじらせゴミ女は、今の自分を受容して、未来の理想的な恋人像である男と女の姿を描き続けるという妄想を断絶することによって、今の自分を愛してくれる人から逃げ出す衝動が消えて健全な性活を送ることができるだろう。
奴隷として教育されている人間に、親になる資格はない。テレビばかりにみる人間は親になるな。テレビばかり見ていいのは、大衆を扇動して世相を動かす主導側の人間の思惑をテレビの情報から逆算できる超リテラシーのある人だけである。他の99.9%の人は、テレビを見まくると必ず思考停止する。思考停止して、世俗的価値観の奴隷になっている思考停止人間は、子供を奴隷にするか、奴隷にならないにしても、苦しめる。奴隷的な親に育てられた子供は、セルフ脱洗脳して人間的生きれる一部の人ほど、辛い。ギフテッドでもない限りは、自分一人の力で道を切り開いていくことも難しい。
人間は、自分の欠点そのものが、他人に大きな害悪を与えること自体は、本人が思っているよりもはるかに少ないことがほとんど。ほんとうは、「欠点そのもの」よりも、当人が自分の欠点に対して抱いている劣等感や罪悪感といった自己否定的感情や、それを変な形で乗り越えようとしてこじれている自己愛の発露のほうが、他人にとっては、はるかに迷惑なことが多く、しばしば他人を巻き込んで苦しめることに繋がることがある。自分の欠点や考え方の偏りに対して、うまく折り合いをつけている人は、欠点が健全な魅力として機能し、安定的な人間関係を構築することができる。反対に自己愛を拗らせて欠点を受容できずにネガティブスパイラルに陥っている人は、魅力的な面が危うさをはらんでおり、健全な人間関係を構築することが難しくなる。しかし、それも本人なりの生存戦略の一環であることが多い。
世の中のほとんどの人の厳密な意味での良心はない。良心がないので、目の前の人の善悪を判断するときに、すでに自分特有の判断を挟むまえに決められた善悪の基準を採用して判断する。これは弱さゆえの強さの一つ。例えば、数年前にマクドナルドの異物混入騒動が起きてからしばらくは、客が激減したということがあった、あの時に、周りに流されてマクドナルドに行かなくなった人や、客が減ったことに私憤を感じなかったも大衆は、完全に良心が欠落している。良心というものは、世間の色調に違和感を持ったり、自身の持つ信念と世間の掟とののズレが起きたときに鮮明化するものだ。もし、世の中のほとんどの人に厳密んな意味での良心があるなら、異物混入したのは、一従業員の問題であり、一店舗で起きたことだし、今回の騒動によって、気を配る体制がマクドナルド側でも強化されただろうから、何も問題ないだろう、みたいに考えるのだが、両親の欠如した大衆は、騒動になっていてみんなが問題視しているから、自分はいかないという、属人的な善悪判断のない流され状態になり、見殺しにする。スシローぺろぺろ事件も同様である。スシローを救おうとする活動自体は尊いと思うのだが、そういった活動が目立ってしまう時点で世の中は腐っている。
生い立ちの良さに恵まれ、親に愛情から健全な愛情を受けて育てられた人間は、精神的にタフになりやすい。しかし、情緒面の障害を持っている人は、「愛されているという感覚」がよく分からない感情把握の仕方をすることで、愛されていると感じずに育ってしまうことがある。ASDに多い。毒親による愛情不足の問題。本当に肝心なのは、「子供が愛情を感じていた(いる)かどうか」であり、親が「愛情を与えていると思っているかどうか」は関係ない。ASDやアスペルガーの子供に愛情を注いでも、本人が愛されるということをよく分かっていなかったり、愛をどう処理していいのか分からなくて正常に愛を感じていないのであれば、ASDや発達障害の勉強したりなどして、アプローチを変えてみることをすべきだろう。それをせずに、将来自分の子供が愛情欠乏に陥ったり、承認欲求にとりつかれて自己宣伝に走り続けて自己受容できずに苦しみ続けたとしたら、悪いのは子供ではなく親である。子供に正しく愛情を注ぐことができない親、子供を幸せにできない親は全て毒親である。子供が結果的に体感的に幸せになったとしても、この世に産み落とした時点で毒親である。「そんなふうに育ては覚えはない」とほざくゴミ親も存在するが、そんな風に育てた自覚がないし、親としての才覚・素養もないくせに子供を産んだゴミであることを自覚していない時点で、ただの、ゴミである。人間の人生など、誰にとっても理不尽の極まりであり、虚しさの集大成でしかないのである。何かを成し遂げても、歴史に名を残しても、愛や人間関係に恵まれても、正当な評価を受けても、夢を叶ることができても、いつか人間は必滅する。むなしいだけの人間の中で、すこしでもマシな人生を送れるように子供をサポートしてこの世に産み堕とした大罪を償うべきである。それができないなら、俺に金をよこせ。
人間は、子供のころや10台で欲しくても手に入れられなかったものを、一生涯追い求めるようになりやすいそうだ(?)
「私バカだからぁ~」とか、私は、「けっこう○○なタイプでぇー」とか自己卑下的なタイプ分けをして話す動機の多くは、自分を分類して他人にアピールすることによって、「自分はそういう人間なんだから分かってくれ」と押し付けているだけである。人間は、褒められるためor自分を理解してもらうため、でしか基本的に自分を卑下する行動に出ることはない。自分のことを馬鹿だと言う人は、ほんとうに馬鹿であることが極めて多い。馬鹿であることは罪である。
巷でよく言われている有名な女性心理のなかに、「自分にだけ優しい男性が良い」「他の女に求められている証のある男から自分にだけ特別やさしくしてほしい」といったものがあるのだが、この理想に強く囚われている女ほど、実際に、自分に恋または愛を向けてくれる男が目の前に現れたとしても、「その男のことを見下して馬鹿にする」or「逃げ出す」かするだろう。女は言行不一致の塊である。女は客体であるゆえに、自己評価が低い女の場合、自分のことを好きになる男が現われても、「粗悪品を選んでしまう物を見る目がない男」を見るような目で、「私みたいな粗悪な商品を選ぶ男の目は腐っている。ゆえに私はこの人のことを好きになれない」と無意識にジャッジして見殺しにし、クズ男のもとへ駆け出す。
自己受容できていないor自己受容しようとしていない男女は、そもそも恋と憎しみが一体不可分になっている。だから、槍チンが多くの女の股を貫くのは、復讐戦のような趣であり、彼らに惹かれるような、同じく自己受容できてない女は、自分にないものを埋めてもらうために彼を手に入れたいと願いもあって体を許すのだが、自分を満たしてくれると錯覚した相手の槍ちんクズ男の魅力は、彼の苦しみの源泉と深いところでリンクしているがゆえに、女側が特に苦しむことになるだろう。お互いの心の穴が歪んだ形で共鳴したことで腐り続けるだけのマスタベーションでしかなく、体の穴埋めをしているだけの、相互利用でしかないので、カント倫理学的な目的の王国にかなっておらず、お互いに不道徳的である。槍ちんクズ男は、女を傷つけることで自己肯定に走ろうとしているという点では、女性蔑視に取りつかれて、女を恨み続けていてのたうちまわり、隙あれば一人でも多くの女に地獄を見てほしいと願う僕のような非モテ弱男と同じようなかんじである。いつも女の悪口しか出てこない男は女のことを全く知らず、女のことを褒めているだけの男は、あんまり女のことを知らない。女を本質的に理解している男は、絶無である。女のことを知っているということは、体性感覚で理解できないことを悟ったうえで、理解しようとするが、やっぱり理解できないということを自覚することと同義である。女は、正直理解する価値もないほどにゴミなのであるが、すこしでも理解していた方が、セックスできるだろう。セックスをしたくてもできない男よりも、いつでもできるうえであえてしない男の方がはるかに楽である。
弱者は連帯できない問題。弱者を叩く弱者。自分は強者側だと思い込みたい弱者。無職と労働者に本質的な優劣はない。どちらが正しいということもない。社会のゴミという概念は存在しない。人間社会ひいては地球そのものが、丸形のゴミ箱でしかない。人間そのものが、社会のゴミであり、ゴミの塊が社会である。
人間は、自分が他人に求めていることを重視して、自分が他人に求めていないことを軽視するか、または気付かないことが多いので、他人がしてくれていることに気づかないことが多い。自己愛を拗らせている人の多くは、承認欲求がたまっていることで、他人の気持ちを考えることが難しくなっているだけでなく、そもそも自分が普段軽視している需要を相手が当たり前に満たしてくれていることに気づかずに、自分がしてくれなかったことばかりを気にするようになり、「あの人は、何も私にしてくれなかった!」などとほざくのである。
槍ちんクズ男は、女の「引っ掻き回せる要素」が好きなだけであり、自分を好きになって恋する女の内面そのものは極めて軽蔑している。自分の中のナルシシズムによる同族嫌悪的な部分も大きいだろう。もし道徳的な人であれば、相手を軽蔑する気持ちがある上で、体を利用しようとしない。槍チンクズ男は、道徳的じゃないし、自分の槍チン的生きざまに疑問を持つこともあまりない人が多い。ナンパ界隈で有名な「ネグ」という技は、自己肯定感の低い女に効果的と言われている。
槍ちんクズ男の中で、自分の性的機能を自慢するタイプの男は、自分の強さや、男性的優越感の充足が至上の目的であり、彼らにとって性行為とは、女を屈服ないし和姦的に強姦するという意味しか持っておらず、自分の男らしさを誇示したり、モテている現実に酔いたいだけのトロフィー思考の保持者であるため、本人の一回の性交あたりの性的満足度は低い水準にとどまっていることが多い。性的パートナーが少ない人の方が、オルガスムの満足度や人生全般の幸福度が高いことも分かっている。人間は他人を踏みにじったうえでの幸福は実現しずらいようにできている。
自己肯定感や情緒が安定しており、自分を大切にできる健全で良い女は、槍ちんクズ男に関心を持ちにくいor愛のない付き合いができないこと、自分を受け入れる気のなさに気づくことで距離を置く(これも不道徳的だが)ので、槍ちんクズ男は、ますます、自分が内面を愛する可能性がある「良い女」ではなく、「自分を好きになるような程度の低い女」を大量に貫くことで、自意識を肯定しよと動きまわるが、本当はシンプルに愛が欲しいのである。しかし、男性社会における経験人数というトロフィーによって幻想的な充足感を得ることはでき、現状に満足してしまう。そしてその現状に満足する状態の背後にあるのだが、他者からの価値観に耽溺している状態。すなわち洗脳状態である。セルフ脱洗脳している目覚めている人ほど、現状に満足しない。
男は基本的に四六時中、中二病な生き物である。男は極端になりやすい。男は、王道ルートの生きざまで上手くいかなかった場合、極端な生きざまで成功することを夢想し、本当に生きざまが極端になりやすい。男が頑張る動機は基本的には、女に認められたいからなのであり、男が中二病症状を悪化させるときは決まって、王道戦略ができずに、逸脱に走っているときであり、一般的じゃない女へのターゲティングに切り替えているときである。なにかしらの逸脱が、千差万別な女の好みのどこかにクリティカルヒットすることを願って世間ずれを起こしているのだ。男は全員中二病なのだが、病状が悪化するときは、決まって女に認められていないときである。槍ちんの精神構造は、中二病に近い。どちらも、愛があれば解決する。とはいえ、演出としてのエンターテイナー的な中二病的様子もあるし、ある程度自己肯定できているタイプの健全な中二病タイプも中には存在する。頭の中で人を殺しているような、本当にイタいタイプの中二病患者もいるが、これは、頭の中での殺人は、セックスへの飢えとリンクしているのかもしれない。ちなみに、頭の中で人を殺せる人間は、ほんとうに人を殺せる人間なのだろうか。ちなみに世の中には、頭の中で具体的なイメージを喚起することが難しい(または全くできない)人も存在しており、彼らのことをアファンタジアという。ぼくもその一人だ。僕が頭の中で人を殺したことがない。
中二病と笑いにおけるセンスの関係。中二病にみられる小さなことを大きく表現する傾国と、笑いにおける「多少はその傾向が或る」というものを「絶対的=」であると言い張るような大げさな表現は、非常に頭の使い方としては通ずるものがある。笑いとユーモアは、実はそこまで関係ないのだが、ユーモアとは体液のことである。語源的には。ユーモアという言葉自体が、笑いの極論のように誇張されていると言えるのか?ユーモアのセンスは、他人を許すための頭の使い方に繋がるのり他人の複雑さや二面性や、矛盾を面白おかしく解釈して楽しむ能力とユーモアは密接に関係している。
総合的にみて、中二病について研究していくこと(教科書を作るための思索)をしていくことが、いまだにブラックボックスである、「男という生き物がどのようにしてモテたいと感じるのか、発情するのか」ということに焦点を当てることに繋がっていく。
恋をするという行為は、ナルシシズムを相手に投射している行為であり、本来は男性的な行為である。女に対してナルシシストという言葉が使われにくいし、ダークトライドも男が多い。
繁殖価値の高い客体女が、広告塔になっているところをみると、女は、「自分が男ならどうみるか。やはり魅力的に映る」という感想と、「この女に比べて私の魅力は。。」という複雑な自己否定感に苛まれやすいのだ。というのも、実は女は男と同等、いやそれ以上に女の事を女として見ているのである。イヤらしい目で見ているのである。女同時でスキンシップするという現象も多いくらいだ。女からみた女の胸は美である。女は女の事を男目線で見ることができるのである。反対に男は男を女目線で見ることは、相当難しい。ある種の目線ではできるかもしれないが、それでも厳密には出来ていない。女性的な詩人肌の男でも難しい。できる男が多いならモテない男は少数派になるかもしれない(?)。女は、「女が理想とする女の美しさ」を理解した上で、「男向けの女性の美しさ」が、実は分かる。それは、世界に蔓延っているオタク向け美少女コンテンツの容姿と、女性向けコンテンツの偶像の容姿の乖離から読み取れる。ラノベ原作アニメに出てくる女にを見ている時、「男が好きそうな容姿だな」と女は思っているのである。しかし、なぜか多くの女は、ぽっちゃりなくらいならガリガリな方が男が好みそうだと極端に考えてしまい、ガリガリになってしまうのだが、多くの男は中間のむちむちが隙である。ガリガリは嫌である。
、女の地獄は老いること、とよく言われているが、人類全体でみたら、本当に地獄なのは、母親に性格が似ていってしまうことではないだろうか。恋愛関係とは、幼いころの親との関係の再現であることが多い。毒母に育てられた女は、その毒母と同じような男を好きなって、同じような毒教育を施しやすい。毒母スパイラルである。自己肯定できていない毒母に育てられた女は、子供を産めば自己肯定できるという詐欺に踊らされて子供をつくり、その子供を支配しようとする。女の敵はやはり女である。自分の娘に対しては幸せになってほしいと思う女は多いが、それと同時に、自分よりも幸せになってほしくないという思いもり、娘に呪いをかける。母が娘に嫉妬をすることも現実的に多い。美人ほど、母親から否定されやすい。メンヘラに美人が多いのも、そのことが関係?女児は、母親との関わりの中で神経システムが母親の思考感情の様式を感受してしまう。
仕事や「女であること」をあきらめて母親になった毒母は、「私は本当はもっと仕事をしたかたった」「もっとモテていたかった」にもかかわらず、「娘を生み育ててしまったこと」で、「あんたなんか生まなければよかった」と、娘に言い放ち、「自分のエゴで生んだくせに」娘に被害者意識を持っている理不尽なケースが多い。人の命を弄んでおいて、自分の不幸の責任を被害者に押し付ける理不尽すぎるゴミ女。ゴミ女。死寝死ね死ね死ね死ね死ね死ね。。
父親が自分が達成できなかったことを、自分の息子に達成してほしいと願うことは、極めて自然なことであろうが、レールを敷いて自分の人生のクローンとして奴隷化させる場合は、極めて残酷である。毒母の場合も、自分の娘に、やきなおしの人生を強いるケースがあるのだが、それは女としての私があきらめてきたものを、私の生きる意志を受け継いだ娘に強制的に体験させることによって、充足を図るのである。しかし、その心理の内には、女としての娘への嫉妬があるので、健全な子育てにはならないことが多く、最悪の場合は、母や他の女などに虐められた娘がメンヘラ化して、風俗堕ちして、槍チンくずホストに貢いで、自分を大切にしてくれる男を馬鹿にするか遠ざけて、道徳的に高まるチャンスを逃し続けて人間的に自殺する。そして毒母連鎖という社会の闇を増大させる。毒親が犯罪にならないのは不思議なレベルである。まぁ、法は正義が実行されないからこそ存在してしまっている。悪法もまた法であるとソクラテスは、いったが、法はすべて悪法であり、腐った社会ほど多くの悪法で縛らなければならい。国は、質が悪くてもいいから、新規の奴隷を求めているののだ。人間はただの将棋の駒でしかないのである。
ある種の毒母は、夫への愛があるがゆえに、娘という女と夫との関係を意識して嫉妬してしまい、娘が女として魅力的になることを姑息に妨害しようと画策する。ゴミ親である。死ねばいいだろう。
子供を自分の所有物だと思っている親は例外なく、毒親である。
男が浮気したときに、女の恨みは女に向かうというゴミ現象が存在する。理不尽すぎるので、死んだ方がいいいだろう。女はゴミのくせに長生きするので、きっと神に愛されていないのだろう。神は、きっと愛した人間ほど意地悪しちゃうタイプだろうから、クズほど長生きする!!!(責任感の強いまともな人も長生きするが)ほとんどの女は、人間としては若いうちに死んでいるので、神は残酷だ!女は自然が気まぐれに産み落とした失敗作の核兵器である。
親を恨み続けること、相手を恨み続けることは、相手に希求する規模が大きいということでもある。相手を恨むことは、相手に支配されていることであり、親から抜け出せていないことである。恨んでいる他人に復讐する方法は、相手を恨むことを辞めて相手よりもはるかに幸せになること、相手よりもコントロールできることを増やし、ある程度思い通りに生きることである。しかし、その復讐を果たすということは、すでに復讐なんて興味なくなくなっているということだ。親に復讐する方法は、他人への復讐とは、違い幸せになることでは断じてない。子供が幸せになることは基本的には親にとって喜ばしいことだからだ。そのため、親の支配から脱しながら、親に地獄をみせて復讐する方法は、自殺しかないだろう。子供が自殺することは、目に見える形で、自分の育て方や接し方が間違いだったのではないか?という自責の念を親に抱かせる場合がある。人によっては、この世に産み堕としたことを後悔させることができるだろう。しかし、その姿は、死んだ後に幽霊になって確認できないのであれば、復讐になるのだろうか?また、子供が自殺しても、反省しない親も存在する。毒親の場合は、普通の親(この世に産み堕とした時点で毒親なのだが)よりも、反省するケースは少ないだろう。
道徳的な人の持つ常に戦っているという感覚は、緊張状態で時間や空間、目の前の事物に向き合うことになるので、常に生命エネルギーを漏えいさせているような苦悩がある。
哲学者マイケルポランニーは、「暗黙知の次元の序文」にて、以下のように言明している。「私が明らかにしたのは、以下のようなことがらである。すなわち私たちには、自分たちが真実として受け入れる「信念」を作るという、責任がある。その責任を回避しようとするいかなる企画も馬鹿げたものである。しかし虚無」から信念を選択するという、実存sy府議の提唱もまた、今や馬鹿げたものであることは明らかなのである。私たちは自らが従属している実在(リアリティ)に奉仕する。そしてその時に私たちが選んでいる基礎に立ってこそ、思考は命を吹き込まれるのだ。」である。
強者は相容れない信念を対峙したとき、信念を否定するものと対峙したとき、「人それぞれ」で片づけて責任を回避しているものとと戦う場合に、あえて自分の信念を守るために、あえて自分が不利になってでも誠実な行動を選択する。人それぞれという言葉は、いっけん多様性を尊重している視野の広い言葉にみえてしまうが、文節の中に、否定形が入っていない場合は、そのほとんどが、自分に理解できないものは間違っていると決めて付けて理解することを放棄している思考を停止してものばかりである。
メンタルが病んでいる風俗嬢のほとんどが、セックスを、復讐のために道具のように見ている。多くの病んでいる嬢や槍満の場合、どうしてもナンパ界隈でいうところのセックストリガー理論(彼氏がいないときに自分の女性器を貫いた男を好きになる女)で体を差し出したクズ男を好きになってしまうのだが、そのセックスには、自分の親からの加害された傷の治癒を相手に求めたり、体を許しながらも相手自身に犯されるという自分を大切にしない犠牲的な性によって親やこれまでの男への復讐を果たそうとするが、恨みは募るばかりである。病んでいる多情女は、セックスを餌にして自己肯定に走ろうとするが、相手依存の復讐心が相手にバレるので、少なくとも彼女に近づいてくるようなクズ男には癒してもらえず、情緒不安定なまま年を重ねて、結局は毒親になってしまうことが多い。風俗嬢に美人は多く、美人は女を生みやすい(?)らしいので、娘に呪いをかける毒母ネガティブスパイラルが発生しやすい。
↑女は恋愛で相手を恨んだり苦しむことは当然あるのだが、8割の男はそもそも恋愛をしたくてもできないという状態なので、女の恋の悩みは贅沢な悩みではないだろうか?
相手に好かれるようとすることはエゴイズム。愛されるための行動もエゴイズム。相手に嫌われようとすることと好かれようとすることは同じ。そもそも、人間は人に嫌われるために動くことはできない。
反出生主義者の中には、反出生主義であることを辞めたいと思っていたり、迷っている人もいるんだが、その中でも、他責思考が強い人は、自分のことを誰かに変えてほしいという願望が強い人が多く、それによって惚れっぽくなってしまっており、余計に苦しむという場合もある。惚れっぽい人というのは、自分に足りないところや、自分を変えくれそうな人に恋をしやすい。女性の反出生主義者の場合は、反出生主義とは真逆の価値観である楽観的で子供が欲しいタイプで気まぐれなタイプを見かけると「この人は、私をどこかに連れて行ってくれそう!」と感じて惚れてしまいやすく、結果的にその男の不誠実さがイヤになり、恨むということもある。反出生主義の女は、男のことを好きになったとしても相手の男が反出生主義である可能性は低い。
ヘリオトロープという花のは、「太陽の方向に花が向く」といわれ、名前の由来にもなっている。
Helios(太陽)+tropos(向く・回る)=「太陽に向かう」という意味。花言葉は、「献身」や「永遠の愛」などである。献身は、女性性の根幹のようなもの。太陽という男に向けて永遠の愛を誓い、献身する女性の象徴と見ても良いかもしれない。しかし、献身するということに、自己犠牲的な媚びが含まれている場合は、エゴイズムが動機となっているため、永遠の愛ではなく、刹那の恋である。太陽が陽物のペニスだとして、植物の受動的な生殖器たるヴァギナを向けており、光合成をしているが、やがて枯れる。
甘やかすことと受け入れることは意味が違う。甘やかされてきた(いる)男は、男らしくはならず、男であろうとする。それによって、クズ槍になるか、こじらせ非モテ弱オスの一変種になるのだが、どちらにせよ、男らしくなりきれない自己嫌悪はついて回るのだろう。
恋をしている被支配側が、不満や怒りを溜めることがほとんどだが、恋を受けている支配側がその怒りをしっかり受容して付き合うことで、相手の恨みが消えて、次第に愛に変容していくことはあるだろう。しかし、恋をしている側の女が、不満や怒りを相手の男にぶつけている関係が終わり、男が相手の女の加減を下手に損ねる関わり方をしないように気をつけることで恋愛感情を保とうとしているタイプ(本人の自覚の有無は関係なく)である場合、相手に愛されて刺激が減ったことで冷めることがあり得るのだ。その場合、初めからやはりお互いに愛はなかったのだ。
男は平均52秒に一度性的なことを考えるが、女は1日1〜3回。萌えているときでも。3回。
女の脳にエストロゲンというホルモンが多く分泌されると、情動とコミュニケーションを重視するようになる。直感で争いを避けるための本能や才能がある。エストロゲンが脳内で分泌されることはあるが、基本的には、脳から指令が出て卵巣で分泌される。脳内で分泌されるエストロゲンと卵巣で分泌されるエストロゲンは、閉経後に大幅に分泌量が下がる。エストロゲンは、妊娠・出産・授乳をサポートするホルモンであり、子供を中心とした他者へのケア行動や協調性、共感性、世話行動の傾向を強める作用がある。閉経後にエストロゲンがなくなることによって、女性は、献身する態度が日常から削げ落ち、自分のために時間を使うようになる。他者に尽くす喜びより「自己の欲求充足」への脳の報酬感受性が高まることによって、生物学的には他者志向 から自己志向へのシフトが起こる。慈しみという情動・感情が減ることで、他者が目の前で争っている状況に慣れやすくなるかもしれない。閉経前でも争いを好む傾向の強い女の場合は、テストステロンの分泌量の多い男性的な女性であることが多く、エストロゲンの分泌量がすくなく、もともと自己指向性の高いタイプだ。実は道徳的な人の方が、ほとんどの場合、自己指向であり、自己指向の人の方が、自己理解や人生に気づくことが早い傾向がある。将棋などの自己指向性を希求し社会とのつながりを一時的に希薄化して孤独に向き合うことが多い競技では、女性は不利になりやすい。科学や数学などの分野の第一人者に女性が少ないことに関しても、性格的な能力が大きな要因だろう。
もともと女は幼少期より、他人の無表情に耐えることが難しい。表情を読むことで他人を理解しようとする機能が発達していることが関係している。ナルシシストや無表情な男を女がなかなか理解できず思い通りにならない存在だと感じることによって、性的に惹かれることがあるように、女にとって男の無表情は刺激になることがある。ちなみに、斜め45度から見た男の無表情な横顔が最も女からセクシーに映るそうである。謎に女向けラブソングや女が書いたポエムや漫画などに、男の横顔を強調した描写が多いと感じるのは気のせいではなかったのである。
男を見る目がある女というのは、「自分は女らしい」というものから距離をとってきた存在であることで、俯瞰して男女の性差を把握することができるため、男に対して幻想みたいなものを他の女に比べたら持っていないことにより、冷徹な目線でクズ男や槍ちんの欺瞞を見ることができるだけでなく、普遍的な男の自他への嘘を直感で見抜くための他の女が男をみるときとは違った判断基準を持っていることが多く、それによりモテる男がモテる、経験人数が多い男がモテるという判断基準を持った普通の女とは、少し違う尺度でその女を見なければならない。
男の性犯罪者は、プライドが高くて孤独であり、計画的に性犯罪を実行している人が多い。世間では性犯罪は衝動的に行われているイメージがある。衝動的に性犯罪を行うのであれば、もっと早くしているはずだと思われる。性犯罪に向かうエネルギーは、女性へのコンプレックスが組み込まれていることが多く、快楽というよりも、社会と健全な性関係を持てないことによる鬱屈を解消することを一つの目的とした復讐のようなものであり、時間をかけて行わるような計画性が伴う場合が多い。
女は先天的に露出癖を持つとするのであれば、女は自分の肌を晒らして変形的な自己承認を獲得したいという欲望がある。そのエゴイズムを受容されないことへの恐れや、客体としての恥らいすらも含めて認められて開放的になりたいと願っている?その最終形態が自己承認が形を変えた成れの果てであるセックスである。一部の女が路上売春(たちんぼ)を、世間で散々批判されており、実際に注意されているのに辞めないのは、売春という行為が、風俗よりも自由に稼げる形態であるという資本主義的な利得よりも、その場限りの「かわいいよ」という承認が心地よくて辞められないという自己承認への果てしない欲望の発露が拍車をかけているのだ。
顔の形而上学。哲学者レヴィナスは、「顔は殺人への誘惑であると同時に殺人の不可能性をしるすものである」と考え述べている。
サイコパシーが高いほど、対面する相手の顔を穴が開くほど見つめる傾向がある。そして扁桃体の機能不全により恐怖の情動が根本的に薄く、瞬きが少ないので、相手の顔を自分の中に取り込んで支配する空間的時間が濃密であり、相手を所有する境界越境的なコミュニケーションが頻発する。
女は聴覚情報から感情を読み取る能力が男よりもはるかに優れている。女は男のように胎内でテストステロンにさらされて情動中枢が正常に機能しなくなることがなく、感情を読みとり共感する能力に優れる。共感能力のある男は実は少ない。
女は、社会的調和を維持するように行動するようなプログラムがなされている。それは、生育過程や、幼児期にエストロゲン分泌などによって強化されていく。女は幼い頃、直接的な命令ではなく、遠回しな表現で協力関係を他者と構築するような誘いをすることが多く、社会的な調和や社会的な繋がりを重んじる行動を取る。遠回しな表現で相手に気付かせるための言葉の操り方も心得ているコミュニケーション能力の高い女の場合、会話中に相手の思い込みを直接的に是正するのではなく、いっけん否定していないような言い回しで間接的に相手に思い込みを気づかせて滑に話を進めようとする傾向がある。相手が直接的な否定を求めている場合や、その場の状況次第で直接的な否定も使い分けることもできる場合が多い。
閉経後は、細かいことが気になりにくくなる。
女は、社会的繋がりの中で絆が形成された女の社会をつくることを目的に動くことがあるが、その絆は、歪でいつ崩壊するか分からない流動的な不安定さがあるものであり、それ故に自分が中心であることにこだわり、いざとなれば異物を排除するために動く攻撃性を持つ。女の社会で中心になりたがる女は敵視されやすいのは、自分が中心になりたいことの裏返しである。
女の旅行好きは、ストレスか解放目的?
男のオーガズムは単純だが、女のオーガズムは、射精後に動かない方が受精を安定させやすいからだと言われている?というより、オーガズムを感じるか感じないかで正しい相手を確保したい?
身体的に健康な相手を求める。それは、顔などの身体的な左右対称性が好まれる。身体の左右対称性が高いオスは背信行為が多い
善人は、攻撃する前足が痺れているから善良と手を結ぶ。女は相手を攻撃する前足が幼児期から麻痺しており、かわりに間接的な攻撃で攻撃してある感覚をまひさせる。
中島義道は、無償の贈与ではなく、見返りを期待した交換は、あらかじめ見返りがないとか、つまり、他者が私に暴力を振るっていると私が思うときには、似非贈与は他者に対する暴力ー対抗暴力であるゆえに、正当防衛とみなされる暴力に転ずることを見抜き、暴き主張している。彼は優秀なカント研究者だ。
女は怒りを感じると、誰かに話したがる。話すことは女にとって他者との関係や、自分がどうみられるかに女は敏感であり、その確認において共感はツールとなる。しかし、共感にこそ善意の嘘が宿っている。俗称ムカつき泣き勃発事件。
ひきこもりが続くと、無理に声を貼ってしゃべることで自意識過剰さや内気さがバレる。
女は気まぐれとアンビバレントで、遺伝子を選別しようとしている?
男のロマンを女が理解できないのは、女が現実に生きているからである、目の前の小さな細かい利益がクリアーに見えていることが女に取って大事である。2~3個先の場当たりの現実を対処し手に入れることが生存戦略である。ドーパミンは期待感があるときに分泌するのだが、男は遠い目標に対しても分泌するので長期的な目的のために目の前の利益を犠牲にしやすく、女は刹那的な行動が多い傾向がある。その分、女は、行動のクイックネスは高い傾向が高い。目の前が木が見えて森が見えない女と、森をみて木を注視しない男の脳である。
脳梁が男女によって違うから。五感から集積する細部を無視して真実をかぎ分ける本能が、男の浮気を探知する高性能な女性脳である。女は他の女の匂いをかぎ取ることができるので、男からなんとなく女の匂をかぎ分けることで、驚くほどの鋭敏な直感を発揮する。
女の霊感が優れていると言われている。霊感とは、詩においては、詩的興感である。詩人は、女性的な脳の使い方を希求する。女々しいところが少しも無ければ詩を書けないだろう。
韓国ドラマを女性が好む理由。女は自分を主人公にした大げさな疑似恋愛を、非現実的な嘘だと思っていてもドーパミンなどがドバドバ出て、一時的が若返るのである。韓国ドラマは女性主人公が多い。韓流ドラマにハマりやすいターゲット層は、中年の主婦層である。子供が巣立ったことで、母としての感覚がすこし薄まり、一時的に女としての自覚が戻りやすくなる頃合いに、疑似恋愛を楽しみたいので、テレビの前のペヨンジュンに喜悦を向けるのだ。
PEA(フェニルエチルアミン)は初恋、恋愛ホルモン。恋の多幸感が脳内を支配し、相手の欠点は見えにくくなる。恋は盲目は、PEAと関係が或る。燃え上がる段階が終わときは、PEAが減少したときだが、その後にセロトニンやオキシトシンの分泌量が増える段階によって、絆の段階になる。恋が愛に変わるには、PEAが減ったころに需要の愛に脳が変化しているかどうかである。アンカーとトリガーを用いれば、相手の脳内に、自分を通じたPEAの萌え上がるサイクルを形成することができれば、ずっと相手を気持ちよくさせられる。(通常、PEAは誰でも2年もすれば消える。)男の覚悟さえあれば、一途な女を救う、ほとんど唯一解決策かもしれない。(一途な女は存在しないのだが)
女が逝くためには、安心感が必要であり、肉体的快楽と精神的快楽と結びつきやすい。ムードが大切?ムードとは外在的に押し付けられているもので意思のない受動性を帯びている。女の性は生物学的に受け身(M)であるので、ムードという言葉と女のMは親和性が高いと気づく。一体感。包み込まれる感覚。イナズマが体を走り抜けるような快感からの、空にたゆたう夢幻のオーガズム。女は、何もかもどうでもよくなる感覚が用意されるまでは、性欲のスイッチが入りにくい。ベータエンドルフィンは、陶酔的な多幸感を生み出す。女はセックスを通して、相手が自分に相応しい遺伝子か(グッドジーン)、自分と子供を大事にするか(ぐっどだっど)をセックスや、セックスまでの言動から読み取ろうとする。女は、その際に愛があるかどうかも正直関係があるが、女は、正多面体のように「この部分はこの相手に受容されたい、愛されたい」という複雑な心理構造をしている。離合と集散を繰り返す群衆のような単純さではなく、この部分を見てくれないこの男はもう知らない。という気まぐれ不道徳のサイクル。
食欲と性欲の深い関係。食欲は太古より人間の飢えを防ぐものであり、食欲を満たすことは飢えを防ぐための頭の使い方である。飢えとは死に近いものであり、食べることは死を防ぐ行動である。人間は死から遠ざかろうとする本能と、生を保存しようとする本能(性欲)がリンクしている。食欲が強い人は、性欲も強い傾向。
人文学や脳科学的にみて、人間に自由意志はないということはよく言われているが、そもそも自由意志とは、「欲することを実行するにあたって、一切の拘束を受けていないということ」であり、「先天的に自分に備わった属人的な尺度だけで意思決定を行うこと」である。人間が自分の意志で実行したと思い込んでいることは、すべて自由に選択したことではあるが、その自由は外部環境に操作された結果であり、ほとんど盲目的な行為なので、自由意思決定による判断に見せかけた自由選択である。人間は、他人の言葉を自分の言葉と思い込むことがあるのも関係しているかもしれない。
私自身はルッキズムに反対である。ルッキズムを助長させている要因の一つに、不細工ほど他人の容姿に厳しいというものが上げられる。この前「前田敦子の可愛さが分からねぇ」とほざいていたゴミ男がいたのだが、彼は不細工である。自分の容姿の醜さが嫌いなのは分かるが、他人の容姿という、人間的価値の一部でしかないものの価値を称揚することによって、不細工に厳しい世界になってしまった。また、人間は自分にないものを持っている人を恋の対象としやすいので、不細工ほど容姿に恵まれた人を好きになりやすい。不細工を苦しめているのは、同じく不細工である。ぼくは視覚優位なので、美男美女が好きなのだが、それだけで人を見たくはないし、そこそこ面食いであることは恥であるとも思っている。そもそも、ルッキズムとは外見至上主義という意味であり、外見が醜いものを軽視する立場のことだ。人間の本能は、美しいものを好むように出来ているので、口ではルッキズム反対とは言いつつも、誰もがルッキズムに囚われているといえる。例えば、外見の醜い害虫を駆除しても何の痛痒も感じないが、綺麗な猫や白鳥などが衰弱する姿には多くの人が心を痛める。害虫は人間に害を及ぼすかもしれないが、そもそも人間が地球の生命全体に害を及ぼしているので、生命全体からすれば、人間こそが害である。人間ではなく人害と呼ばれるに相応しい。見た目が美しい生物ばかりが人間に愛され、醜いものは軽視されるという理不尽に私憤を覚えないものの良心を疑う。
人間は完全に客観的にはなれない。主観を通っている。自分の脳を介しているから。
女は男に比べて買い物依存症になりやすく、ブランドものなどを手に入れたい欲が強い人が多い。(報酬系)。他人から自分を認められるうえでのステータスとしてブランドを機能させる。これは、女の外質的財産全般にいえることであり、おそらく彼氏をブランド価値で見ることは、ほとんどの女がしている。女がブランドものに身を包んで社会との関係を構築しようとするのは、狩猟採集時代の名残りであり、本能的なもの。内在的外在胤(因)である。かつて女の横並びの社会において一人だけ目立というものなら、「男を奪おうとする女」として仲間の女(とりもなおさず敵なのだが)から淘汰されてしまうだろう。女にとってブランドものは、マウントを取るための道具でありながらも、女の敵は女の図式のバランスをとって、極度の迫害を防ぐための処世術であった。女は周りの女と同じようなブランドや容姿に近づけることによって、迫害を防いでいると同時に、細部の工夫で差別化を図りたがる。「このブランドのこの部分のところだけ○○性の特別仕様」だから他の女と違う見たいな、小さなアピールをしているのだ。ざっくり見た限りでは何にも違いが分からない人が多いので、たいした差別化になっていない気がするのだが、(本質的に差別化できていたとしても、ファッションは他人からどう映るかが重要なので、違いが分かりにくければ意味がないのでは?)ちなみに、ブランドの語源は、「家畜を見分けるための焼き印」という意味であり、女はブランド物によって完全に俗物畜群根性を露見させるが、その愚かさは国家にとって好都合だろうから、ほとんどの女も反省しなくていい(反省することは女らしいのだが)社会風潮が醸成されている。資本主義的は、女の俗物根性で回っているといっても、大げさではないのかもしれない。女は、楽しめればなんでもいい系の浪費型コンテンツ摂取をするクズだらけなので、飽きっぽく無邪気に価値を見殺しにする俗である。
女は、ため込む性である。jkのバックにはゴミが入っていることが多い。女の脳は左脳と右脳の結びつきが強いので、多くの情報を扱うことができるのだが、選んで使う能力は高くなく、アウトプットしたい欲は強いので、つまらない話を出し入れすることが多い。話が面白くなることよりも、とりあえず出し入れすることをする;。
人間は、楽しいことだけのことを楽しく長く続けることはできない。ゲームなどでも、退屈なところが一部あるからこそ飽きずにある程度は続けることができるのだ。もし、どんなRPGもレベル99から始まり、最高強化された武器が最初からすべて揃っているような場合なら、すぐに退屈すぎて遊べたものではなくなるだろう。人間関係やコミュニケーションも同様である。ネガティブな要素があるからこそ、充実したものになるといえる。コミュニケーションや人間関係においてネガティブ要素は、緩急を作り出すものだ。
悪魔の辞典によると、「異常な」とはk「基準に従わぬ。思想および行為に関する事柄について言えば、自主的であろうとするのは異常なことにほかならず、異常であれば、かならずや人に忌み嫌われる。それゆえ、本時点の編集者は、「世間普通の人」にご自分を、かくいう筆者自身が自分自身に似ている以上にきびしく似せるよう、努力されることをおすすめする。これを成し遂げられた力は誤りなく平和を、死の見込みと地獄への望を得られるに相違ない。」」。この一見偏った定義を採用すると、哲学者ほど異常なものは存在しないといえる。異常であることは正常であることと同義であり、マキシマム座ホルモンの余臭復習の歌詞を借りれば、「異常な正常者」こそが大衆であり、正常な異常者こそが、大衆でない者である。オルテガによると、「大衆は、大衆で無い者に対して、恨んでも恨み切れないほどの恨みを持っている」と述べている。弱さゆえの強さの代表とは、数の暴力である。世の中は、当然、大衆(蓄群)に最適化されて運営されているので、大衆であることは社会一般的には、異常であり、世間の保護色として、責任を負わずになるべく嫌われないように生きていることであり、そのことにとらわれているうちは、まだ完全に蓄軍を脱することができていないということであり、たとえ、大衆で無いものを迫害しないものであっても十分に非大衆ではないのだ。
女の主観的態度と偏愛について考察するうえで参考になるのは、萩原朔太郎の「詩の原理」に詰まっている。この詩の論考において詩的精神と主観的態度の関係が彫心鏤骨の筆致で書き上げられており、人間の主観性を考えるうえでおあつらえむきである。その一つ「あらゆる全ての詩人たちは、皆この主観的態度によって宇宙を見ている。故に詩人の見る宇宙は、常に必ず詩的な意味をもつ宇宙であって、それ自身が直ちに詩の内容になってくるのだ。然るに素質的な詩人で無い人々は、こうした主観的態度でなく、他の客観によって事物を見るから、たとい形式に於いて韻律の規約を踏み、或いは和歌や俳句の拡張を借用しても、真の文学的な批判に於いて詩と言い得ないものしか出来ない」と述べている。詩とは主観的態度であり、個人的な偏愛を絶対的真理だと陶酔的に錯覚している状態ではないだろうか?詩とは夢の世界を言語化したものであり、プラトンにおけるイデアである。ニーチェは、女は全員詩人になると言っている。女自身は主観と幻想に惑溺している存在であり、詩的な存在である。
即ち真に感情で書いたところの、実の本物の詩にあっては、言語が概念として使用されず、主観的なる気分や情調の中に融けて、それ自ら「感情の意味」を語っていることである。これに反して似而非(にせひ)の詩は、言語が没情感なる概念として、純に「知性の意味」で使用されている。(ニイチェの哲学詩と他の学術の哲学とを、この点に於いて比較してみよ。)詩に哲学的な概念を持ち込んではならない。ニーチェは、詩の禁忌を犯しているのだ。しかし、詩人としてニイチェは一級品であるので例外的存在である。
詩ではなく、共通言語が人を結びつける。カルト教団で共通言語を用いて洗脳しているように。人間は言葉に縛られており、言葉が人格を操作していることも多い。語彙を選定することによって、人格を選定されることがある。
女が旅行によく行くのは、(特に女同士で)、非日常感の中で、細かい心配事などから解放されたいというような動機だけでなく、浮気をバレにくくするためである。女は子育て優位のグッドダッドを確保しつつ、強い遺伝子を取り込むという生存戦略をとるうえで、細かい嘘つきで気まぐれという性質を進化させてきている。浮気した時の行動パターンが変化しにくい女は浮気がバレにくい。
フロイトの夢判断によると、夢に出る「ネクタイ」はペニスのメタファーである。人間の無意識において、ネクタイはセクシャルな意味合いがある。男が仕事終わりに、ネクタイを女の前で軽く緩める仕草をすれば、目の前の女は性的魅力を感じるかもしれないだろう。男の場合、好みのネクタイを欲しがったり、ネクタイに拘る姿勢に、自分のペニスへのコンプレックスや不満などが現われることがあるだろう。女にネクタイを褒められた男は、きっと自分の男としてのシンボルを承認された気分になり陶酔的な目を向けるだろう?玄関で、妻(彼女)にネクタイを締めてもらうというシチュエーションは、愛の施しというようり、物神(フェティシズム)が艶笑するエロティズム漂う光景かもしれない。
良心が属人的な善悪の判断なので、モテる男がモテる現象(モテスパイラル現象)は良心のない人が多いからこそ成立している。
フロイトの「死の衝動」の説において、人間な無益な戦争をするのも、しばしば愛する対象を傷つけたいという欲望(サディズム)に攻め立てられるのも、要するに、人間が死ぬことを心の底でひそかに望んでいることの結果であるという。
貴志祐介の硝子のハンマーの主人公は、自分の身を危険にさらず経験にさらされることが多く、死の衝動が強化されているところも関係あるかもしれない。
心中をする男女は、死ぬ前にかならずセックスの営みをすると言われている。セックス中に死ぬ(情死や腹上死)することが最も、エロスとタナトスの極限状態であり、永遠の愛の誓いである。情死は、お互いに最初から永遠の愛を誓っているようなものだし、運よく腹上死のおいて二人とも死ぬことができれば、結果的には、お互いに不実を働くこともないので、もっとも誠実な愛であろう。ある意味運命の相手である。
女は、基本的に、ただ他の女とセックスできている繁殖能力が保証されている男が好きなだけである。金も地位も実はそこまで関係ない。金持ちの男の中でも、金を女に貢いでいる男の多くは、金がなければ女から相手にされないレベルの低い男だと見透かされているだけである。悲しきことに、女はそのことを指摘するぐらいなら利用してから捨てたほうが得だと考えるので、ほめそやして金を使わせたあげく、おそらくセックスはしない。したとしても、さらに利用するだけ。二人きりで女と会っているからといって別にその女に必ずしも見下されていないというわけではない。女は利用できると思った男とは二人きりであることもありうる。
女は下に見ている人の良いところを認めようとしない。女の毒親の場合、子供を自分より下の存在だと思っていたり所有物だと思っていたりするので、子供を否定しやすい。
悪魔の辞典。女にとっての地獄は老いることである。とすれば、「君は自分を傷つけたおんなをころすことは許されていな。だが、おんなは一分ごとに年をとて行くものだ、と思考することは一向に禁じられてはいない。こうして君は、一日に千四百四十回も仕返しができるというものだ」自分の宇宙こそがすべてである。ぼくはすべての女に地獄を見てほしいと思っているので、女が常に老いの地獄を味わっていると仮定して溜飲を下げていこうと思う。どんな美女でも、いつかは必ず干し柿みたいなBBAになりはてるし、賞味期限はそもそも短いので、若い女に否定的感情を抱いたときは、「こいつもしばらくすればBBAになる」という事実を思い出すことで溜飲を下げるべきだろう。
女なしでやっていけるような男が女に困らないという現実があるので、僕のような女嫌いと女好きが屈折融合している弱オスは、女性蔑視で爆死する前に、一度はモテておいた方がいいだろう。
仏教の古い哲学、アビダルマ哲学において、すでにうっすらと存在しており、最新の分析哲学においての一つの考え方となっている考え方に、「時間は未来から過去に向かって流れている」というものある。
反出生主義の敵の一つに分析哲学の時間論が立ちはだかる。
アビダルマ(特に部派仏教の阿毘達磨論書)では、現在のみを実在とし、過去・未来は抽象的に想定されるだけ。時間は「流れるもの」ではなく、瞬間ごとに生起・滅尽する法の連鎖として説明されるのが一般的。時間そのものを「独立した実体」とは見なさない のが基本。すべての現象は「刹那滅」(一瞬ごとに生じては滅する)とされ、「過去・現在・未来」の三世が議論対象になる。部派によって立場が異なり、説一切有部(サルヴァースティヴァーダ)においては、 過去・現在・未来の法はいずれも実在する(三世実有)。現代の分析哲学における「時間の流れ」についての解釈は大きく二つ。A理論(現在主義)とB理論。Aは、現在だけが存在し、未来はこれから実在し、過去はもはや存在しない。B理論(永遠主義/ブロック宇宙論)は、過去・現在・未来は等しく存在する。そして、時間の「流れ」は心的現象にすぎないというもの。現代の相対性理論などの物理学と整合的だとして、多くの分析哲学者・科学哲学者は B理論(ブロック宇宙観) を支持する傾向が強い。その場合、「時間は未来から過去へ流れる」とか「過去から未来へ流れる」という表現自体が誤解で、そもそも「流れ」は実在しない とされる。だがしかし、ここであえて、この強固な牙城を解し、「時間に流れが存在すると信じ、時間は未来から過去に向かって流れている」と措定し、「心の流れ」に対して、ある程度の体感的な思想的強度のある確信を持っているのであれば、この思想をもとに、心を軽くする信念を形成していき、湿潤な心を形成し、のれんのように苦難をすり抜けていくレジリエンスを鍛え、ついにはアタラクシア(心の平常)に至り、人生に悦びが戻り、精彩に満ちた生き方に変わっていけるかもしれない。ニーチェからすと、超人像の中にアタラクシア的なところはあるとはおそらく思っていない。超人の生き様は、アタラクシアのように平穏無事な様子ではなく、魂から躍り出るようなドラマ性を帯びた舞踏的な躍動感があり、アタラクシアは、むしろニーチェの理念の対極に位置する受動的な態度だと思われる。
人類普遍的な価値が脱構築されて、絶対的な意味が失われ、おのおのの解釈次第になった現代。そして、AI時代によって、教祖的に価値や意味を与えていくことができる思想は武器となる。
女が記念日にこだわる理由は、世間ではあまり知られていない。女は時間が客観的なものであることを知っていないながら、なるべく主観化したい生き物だからである。女も男と同様に、楽しくてあっという間に過ぎ去った時間も、時計を見て振り返れば、正確な過ぎた時間を客観的に把握することができるが、心では主観的に刻んでおきたい。自分固有の過去を自分独自の観点から意味付けしておきたいと考える。その意味付けがストーリーテリングのような形で行われているコンテンツは女性ウケが良いようである。
情報空間におけるエントロピー(無秩序状態の度合い、情報の乱雑さの高さ)が極小になる状態こそが、空(くう)である。抽象度の高いところな、抽象度の低いところに落ちていくことでエントロピーは上がる。統合失調症状は、情報空間における複雑性の低いところで乱舞している。
そして、情報空間と物理空間の両方にまたがっている存在こそが「生命」である。デカルトの二元論では、情報空間と物理空間を実体の異なるものとして考えていたが、現代では、情報空間と物理空間は同じものとして捉えられている。つまり、生命は物理空間いも情報空間にも存在していると考えることができる。IQの高い人は、情報空間に身体性が帯びている状態で抽象概念を理解することができる。そのため、生命という哲学的テーマに挑むこと、思索を巡らすこと自体が、情報空間に臨場感をもつことが必要なのであり、本質的なIQがそれほど高くない大衆に反出生主義が広まらないのもそのためである。人間は他人と共有することができるほど、抽象度の低いということができる。抽象度が高ければ高いほど、情報量は減少していく。
映画で泣く人は、同情深い。人間は、自分事では泣かないからだ。精神世界で他人を犠牲にできる人が映画でなく。泣ける映画とは、泣きに行くための映画という意味に差し替えてもあながち大げさではないといえる。
人間の脳の寿命はヤク200年
ボーイフレンドクラッシャー
宇宙は情報で成り立っているという「唯識」。釈迦が言っていた。
人間の発想の様式は、原則として三種類しかない。「記述」と「説明」と、そして「表現」である。(詩の原理)。
ラロシュフコーの箴言。「変わらぬ愛には、二通りある。一方は、愛する人の中にその人を愛する新たな理由が絶えず見つかることから来ているもの、もう一つは、心変わりしないのを誇りにしているためのものである。」
ストーリーテリングが得意な人は、教祖的素養があるかもしれない。人間は死への恐怖を乗り越えるためにストーリーを求めており、死と性は同根である。
女性恐怖症者が防衛規制を働かせた結果として、女性的な行動に出ることがあると思われる。幽霊が怖い子供がお化けのフリをするという、あるある現象と同じ心理である。フロイトのいうところの、攻撃者(女やおばけ)への同一視の機制が働いているのだ。人間は、恐怖の対象に少しずつ近ずくようになっている。女が怖ければ怖いほど女に近づいていき、人格分裂が拡大していく。女性恐怖症の男の詩人が、女性的な語り口の詩を書いてしまうことはあるだろう。
外的自己と内的自己とが分裂しているかぎり、いくら自主的にならねはわならないと頭で分かってきても、行動は両極端のいずれかに分裂し、自主的になれない。
どんな人間でも、何者かになれる。何者にでもなれる力を持っている。しかし、何者かになるためには、自分であることを辞めなければならない。
イギリスの詩人・批評家のマシュー・アーノルドは、自身の社会評論「教養と無秩序」において、「教養とは完全の追求である」と主張している。教養を獲得する上で激情的な向上心がたぎっている状態は適合的なのだが、一般的な教養を獲得していく過程で、情熱が失われて行ってしまう場合も多いのだ。完全になりたくても完全になれない欠乏感は心の豊かさによって安定を得てしまう教養人とは態度が少し異なるものだ。そして、完全と完璧は意味がちがう。嘘喰いの47巻の名言。「完璧とは、己に根ざす機能を自在に操ることである。」。館越えでの名シーン。、自分の持つサガの延長線上で完全あることが完璧だと言えるのではないだろうか?完全であることは、短所と長所が表裏一体であると知っていなければ深くは分からない。
ものぐさ精神分析に、精神病者についての極めて含蓄のある言葉。「精神病者は、その私的幻想のほとんどを同化し得なかった者である。彼は、自分の住む社会の共同幻想をいったんは外面的に受け入れるかもしれないが、それは彼自身の私的幻想と何の内面的つながりのないものであり、彼はそこに彼自身の私的幻想の共同化を見ることができない。また彼は、彼と同じくその私的幻想を社会の共同幻想に共同化し得なかった人たちと組んで別の共同幻想をつくるということもできない。(それができれば、彼は、成功するにせよ失敗するにせよ、革命家となるであろう)。彼の私的幻想は、彼一人の自閉的世界のなかで増殖し、一応適応して生ける偽りの外面をついに突き破って躍り出てくる。はたから見れば、それが発狂である。発狂は、ある意味で、私的幻想の、失敗した共同化の試みであると言える。彼の私的幻想が妄想と呼ばれるのは、他の誰一人としてそこにひとかけらの共同性をも見なかったからである。一般の人々が精神病者を気味悪がり、閉じ込めておこうとするのは、彼が危険だからというより、彼らがあまりにも当然のことと信じている共同幻想をまるっきり無視している者を彼のうちに見、彼らの共同幻想が実は幻想なのではないかとの疑いを起こさせるからである。革命家だって、彼が反逆している共同幻想を部分的には是認しており、犯罪者だって、共同幻想の何らかの側面に違反したというだけであって、それを全面的に否定しているわけではない。その意味において、精神病者は、革命家や犯罪差とは別種の脅威を共同幻想に与えるのである。人びとが、彼の私的幻想を何の意味も根拠もない妄想として無視するのは、その意味について考えるのが恐ろしいからである。彼の妄想は、その社会の共同幻想から排除されている私的幻想の実体をもっとも露骨な、もっとも純粋な形で示しているのである。彼が「狂っている」のは、共同幻想、いいかえれば、疑似現実、社会的現実に関してであって、本来の自然的現実に関してではない。」
女は溜め込む性だとすると、ゴミやストレスだけでなく、食べ物も溜め込むと考えてみてもいい。そうすれば、女の方が男より食いしん坊率が高いと思えてくる。
男と女を示すマーク(記号)。男のマーク♂
は、盾と槍を象徴している。男のシンボルであるペニスは槍のようである。火星記号とも呼ばれている。女性のマークである♀は、鏡を象徴している。金星記号とも呼ばれている。
人間の脳は、二百ミリ・セカンド(0.2秒の遅延をもって今を認識しているということだ。そのために、人間が認識している宇宙こそが全てであるとしたら、人間は今というものを知ることができない。
人間が、自分の欠点を容易く告白するのは、その欠点のせいで人から悪く思われた分を、率直さによって埋め合わせるためである、
女について考えすぎているものは、ある意味で女について何も考えていないのかもしれない。
ごく一部の人以外は、メンタルの強い弱いは、環境でほとんど決まる気がする。誰だって称賛されている環境ではメンタルも頭脳も冴え渡り、努力することは容易である。むしろ、努力しない方が難しいくらいだ。
エロティシズムもナルシシズムも、極端に突き詰めれば、死の衝動に近づいていく。愛の極限は死であるというのは、性愛についても自己愛についても言えることである。愛が強すぎて殺したくなるというタイプの症状を出す人もいる。
憧れに性的欲が絡むことがあるとすれば、人間のように、自分にないものを持っている人に憧れることが性として相手を意識することに繋がることがある。人間は、もともと両性具有だとする神話によると、男であることは女が欠如していることになり逆も然り。男は女を求め、女は男を求める。中華的なは男は陽で女は陰。陽と陰は惹かれ合うが、陰の要素の強い男に対して、女は冷たいのかもしれない。
フロイト的に、金魚は、子宮である。マジデス壊のOPに主人公が金魚を食べるシーンがある。
痛車というものは、女性性のシンボルである車に自らの性癖を投射したものである。
流行に乗る大衆心理の中には、みんなが従っているものに従うことによって、責任を取らなくて済むというものがある。
他人を試す行為にでる人間心理には、どこかで人を信じていたいという願望が隠されている。ゆえに、他人のことをまるきり信用に値しないと思っているタイプの人は、試し行動にでることがないので、期待を裏切られることは少ないだろう。
ものぐさ精神分析に至言が書かれている。「未来とは、逆方向に投影された過去、仮装された過去に過ぎない。未来とは、修正されるであろう過去である。過去において満足されなかった欲望は数限りなく、悔恨の種は尽きないから、未来は無限でなければならない。未来が限定されること、すなわち死をわれわれが恐れるのは、過去を修正するチャンスが限定された者の絶望とは、悔恨に満ちた過去をついにこのままにとどめざるを得なくなった者の絶望である。この意味において、死の恐怖を知るのは、抑圧する動物たる人間のみである。」
抑圧するということは、矛盾をはらんだ行為であり、肯定と否定が錯綜した複雑性を帯びている。というのも、何かしらの対象を認知して初めて抑圧という行為は可能になるのであり、抑圧する対象には認知が先立っている。そして、その抑圧は、認知を永続化させる効果を持っている。一般に、男が性欲を抑圧するということは、女の性的魅力・繁殖価値へ希求という認知が前提とされている。性欲を抑圧しようとすること自体が、女という存在なしには語ることができない。女嫌いと女好きは一体不可分である。ゲイが女嫌いにならないのと同じように、関心や認知の強度は抑圧の強度とリンクしている。
人間が誰かの栄光を持ち上げてみせるのは、大抵の場合、他の人の栄光を貶めるため。
ものぐさ精神分析より。
「ここに非常に攻撃的な人間がいるとする。彼がなぜ非常に攻撃的であるかを説明しようとする場合、実体論的見方に立てば。それは彼が普通の人以上に、攻撃的な本能、衝動、欲望。あるいは攻撃行動を惹き起こす作用をもむ生理的またら化学的物質、つまり何らかの実体をもっているからである。彼の精神、脳または身体よなかにあるそのよつな実体が彼を攻撃行動にかり立てているのである。他方、反応論的見方に立てば、彼が非常に攻撃的であるのは、まず周囲の人びとが彼に対して攻撃的であるか、周囲の世界が彼に対して脅威を与えているかのためであり、彼はそれに対して反応しているに過ぎない。彼が普通の人以上に攻撃的であるのは、何らなの理由で彼にとっては普通の人以上に周囲の世界が脅威的であるからである。」
まず、人間は実体論的な見方と反応論的な見方の二つを、本人の自覚の有無は関係なく交互に用いて世界を眺めている。片方の見方をしているときに、もう片方の見方を忘れているということはよくある。実体論的な視座は、客観的見方と対応ひており、反応論的視座は主観的見方と対応している。人間は、他人ないし敵の行動については実体論的な見方をし、自分や味方の行動については反応論的な見方をする。
自分に対する相手の攻撃は、相手の意地悪さ、ひねくれた根性、傲慢さやなどの攻撃的性質に結びつくものに起因するとみなし、相手に対する自分の攻撃性は、相手の攻撃に対するやむを得ない正当な攻撃または防御であるとされる。それゆえに、人間は理不尽な人間関係の構図を作ったり、傲慢な考えに浸ったりしてしまう。心理学用語の「根本的な帰属の誤り」のメカニズムにも深く関係している。人間は、自分のことを反応論的視座に傾倒した捉え方をしやすいために、他人に厳しく自分に甘くもなりやすい。
反応論的見方に傾倒した視点で「サイコパス」を眺めるならば、彼らは、周りの人間が全員敵だと思っているから、本質的に他者に攻撃的なのかもしれない。
反応論的に反出生主義主義を考えてみると、アンチナタリストの典型的な人物像が浮かび上がってくるかもしれないし、彼らに一貫していえる思考の核が見えてくるかもしれない。
「結婚と文學。結婚の利益は、女性の本質を知ることである。結婚の損失は、女性への幻滅を知ることである。それ故に結婚しない小説家は、未だ女を書くことが出来ない。結婚した詩人は、もはや女を歌うことができない。」
↑いっけん解釈が難しい箴言なのだが、萩原朔太郎の詩の原理を読んでいれば彼の意図どおりに読み解ける可能性がある。詩は小説とは違って、夢(イデア)の文学であり、高調された主観の文学である。届かないもの、手に入れられないものへの憧憬や激情性を文学上の音楽として昇華されているものが詩である。それ故、女について幻滅してしまうことで、女への幻想や夢幻的な見方が崩壊するゆえに、詩人という性と詩を紡ぐということにおける骨格のポエジーが喪失する。それ故に、女について歌うことが出来なくなる。小説の場合は、女の本質を知ることによって、真の意味での女性を知り、描写することができる。おそらく女性作家の場合も同様であり、結婚しないうちは、女性自身も女性を知り得ないということになるのではないだろうか。この箴言は、萩原朔太郎が、詩の原理などで論じている、「小説家には真の詩は書けず、詩人には真の小説が書けない」という論の補強材料にもなる可能性があると思う。主観と客観の文学という違いだけでなく、そもそも本というものと密接な精神分析的結びつきがある女性というもの自体を書き得えない状態ということが、重要な視座である。
学園もの作品で、よくHな風紀委員が登場するのは、風紀を守るという大義名分により反対の風紀の乱れを予期させるので、背徳感が感じられるからである。これは、美徳の不幸で行われているものと似ている。極端なものは反対物を期待させる。
臆病者は確実を選択しやすい。子供を確実に幸せにできる自信がないということが保証されていないから出生は悪だと考えるタイプの反出生主義は臆病者のような発想かもしれない。
「おもしれー女」と呼ばれる人は、99.9パーセントつまらない人間である。
女が男の余裕なさを嫌うのは、家庭を持った時に、子供に与える力が無いと判断されているようなものであろう。
そういえば、商品を開封するときに箱を開けるのだが、その様はまるで、出産のようではないだろうか。
ものぐさ精神分析などの著者で、心理学者の岸田秀先生は、「人間に関する問題ならどのような問題もすべて繋がっており、ある問題を説明できて、別の問題を説明できないような理論は理論の名に値しない。理論の名に値する理論ならば、たとえば天皇制と性倒錯を、革命と精神病を、戦争と恋愛を、宗教と貨幣を同じ統一的体系によって説明できるのでなければならない」と述べている。その場しのぎの詭弁や実利を優先して真理を踏み砕くソフィストは、さまざまな分野を横断しながら体系的に語るのではなく、寄せ集めのピースをまるで綺麗にハマめて一つの絵を完成させたように見せるペテン師であり、知を愛するもの(哲学者)の敵である。いや、本質的には敵ですらないのかもしれないが、現代において2ch創始者のひろゆきみたいな人が、フィーチャーされて持て囃されている時点で、社会的な影響力という意味では、ソフィストは哲学者の脅威たりうるといえるかもしれない。しかし、体系的に掘り進めて語るうえで、いっけん関係ないジャンルの話をすることは、一歩間違えれば、こじ付けに聞こえてしまうので、やはり伝えたくてしょうがないことがあっても、ジャンルを越境しながらもある程度の整合性のある体系的な理論にしていけるまでに、自分のある種の知識教養や何かしらの視点の欠如、ある種の伝える能力の欠如に苦しむことはあるかもしれないが、それを乗り越えたときに、伝えたくてしょうがないこと伝えるための学びが人生の張り合いを生み出すことに繋がっていくので、苦しむ段階は必要なものであり、筋肉痛のようのなものとして受け入れると前に進んでいけるのかもしれない。反出生主義を伝えていくための理論も、精神分析、生物学、物理学、女性蔑視、フェミニズム、倫理学、犯罪心理学、サブカルチャーなどのテーマを有機的に結合しながら体系化して一つの理論を織りなしていくことが重要だと思われる。反出生主義は、生命に関るものなので、扱えるテーマの幅は極めて広く、むしろ扱わなければ本来理論として成立していないという岸田の主張における、分かりやすい一例だと言えるかもしれない。そして、体系的に反出生主義の理論を展開していくためには、論理的な思考を極める必要があり、論理の極致に至ったときに現れるであろう、さまざまな分野を俯瞰的にみてすべて同じものとして、繋がっているものとして考える力、感じ取る力を手に入れることが重要である。そのために、反出生主義をディベートのように、主張と反論を自分の中で繰り返して、自分の中のジャッジに決めさせるという作業を無限に繰り返して磨き上げていくといいかもしれない。奇想天外な発想は論理の外にあるが、論理を極めた先でも到達できるものである。反出生主義の理論を考え続けることは、ディベートのようなものに近くなり、それによって、考え方の癖や、「絶対に反出生主義は正しい」という固執性が解きほぐされていき、反出生主義者ではなくなり、他人に押し付けたくて仕方なくなる状態から脱却することもできるので、反出生主義的な人になることも考えられる。
人の命を相対化してはいけない。ということは、人を殺してはいけない理由は、人の命は、そういうものだから、世の中には相対化してはいけないものがあり、論理の土俵で説明するべきものではないものがあり、その代表が人間の命である、というものだ。人を殺すという行為は、その殺した人間の命を、自分やその他の人よりも下に置いているものである。では、反出生主義は、人の命を相対化する考え方だろうか?部分的にはそのようにみえる考えを持っている場合があるが、前提としての論理には、人の命を相対化する考えがうっすらとみえるかもしれない。しかし、すべて人間は生まれるべきでは無いという思想は、人の命を平等に見ている考え方である。では、出生することや、自分の子供の命をより大切にする考え方は、人の命を相対化する考え方ではないのだろうか?
所詮、世の中の男は、女にいいように操られている存在だとみなすのは、女を尊敬すべきだという黙約に基づいた誤った見方である。
詩人は、自分の中の女性性を武器にしている。それは、自分の中の女性性が、「自分が女では無いこと」が、男の証であると知っていることで、女を自分とは異なるものとみなしたいという願望が屈折して、女性蔑視の思想を打ち出すこともあるかもしれない。
ソクラテス以降の哲学は、よく生きることの追求であるといえるので、哲学とは無縁な女は、よく生きることができない生き物であると言っても過言では無い。
カントは、道徳法則を実現する能力としての「性格を二段階に区別した。一つは叡智的性格。自由に自己を決定する自分(道徳的責任を負う主体)。もう一つは経験的性格。自然的必然性に従う自分(心理学・生理学で説明可能な人間像)のこと。どんな極悪人でも聖人と同じほどの叡智的性格を持っているが、さまざまな原因によって彼はそれを発現させることを怠り、己を「悪い性格」よ人間に形成してしたという。ゆえに責任が発生している。叡智的性格は良心と結びついており、人間が道徳的に判断する上での要諦が叡智的性格である。一般的な経験的性格による善悪の判断は厳密な意味での良心を伴わないことが多い。
女は、快楽を長引かせたいという身体の底から湧き上がる欲望により、自分が騙されているという客観的事実を否定しつつも、騙されたままでいたいのである。
相手の男は自分のことを愛しているのだから、自分が嫌がることをしないと本気で思い込むことがあるらしい。そして、自分が嫌がることがたとえ不可抗力で行われたとしても、それは、自分を愛していないから行ったのだと断定して、男を切り捨てる。例えば、会社をリストラされた夫が家計を苦しめてしまうとき、それは私を愛していないから、という頓珍漢な推理になってしまう。もし夫が自分を愛しているのであれば、リストラをされるなんていう私が損をするようなことをするわけがないので、リストラされている時点で、私のことを愛していないというわけの分からない妄想を信じてしまう。それゆえに、自分が男を切り捨てることに関しては、「自分がもう愛していないから」という理由を、相手の男は私の恋愛感情を冷まさせたから、相手は私を愛していない。故に私が別れを切り出すことは、問題ないという不道徳な価値観を持っているのではないか?もしくは、そもそも自分が得をしているかどうかが問題なので、自分に不利益を与えているもの背景事情に思いを巡らせて葛藤するという道徳的精神そのものが敬辛くしているので、何も考えずに他人を切り捨てることができるのかもしれない。
自然の大いなる意図は人間含めた生物に当てはまるのだが、人間の場合は例外的に理性的存在者であるゆえに、道徳的に向上を命令付けられているのだが、女はこうした命令が下されているにもかかわらず、自分の力では達成できないゆえに、男を支配して精神的に結合することでしか道徳的に高まることができないが、それと同時に妊娠という悪に向かっている。反出生主義からすると、そうである。
女は、目の前で表立った対立が起きていること自体を嫌う。ここで重要なのが、対立が表面化することが女の中では自然に反しているということである。女は、対立そのものは、自ら起こしているのだが、それが、表沙汰にならない形で陰湿におこなわれる。表立った対立をさけ、表面上は平穏を装い続ける。その欺瞞的態度が、根本的な対話を圧殺し続けていることになんの痛痒もなく、ごく自然に平穏無事の世界の気持ち悪さを肯定してなんの心地悪さも自責の念もなく生き続けられてしまう。対立と対話がちがう事も、女には分からない。女にとっては対話の中にある根本的な問題解決へのアプローチは、自分の気分を害さない範囲で他所でやっていて欲しいと思っており、とにかく平穏の中でいれば心地よいのである。表立った対立は、根本的な原因に向かう意識が当事者にあれば誠実であり有益である。
女は「みんな教」の信者である。何かをはじめる時も、他人の思惑によって行動する。自ら決断するということは責任を伴う行為であり、責任回避性が高い女からすれば、「みんなと同じ判断をした」ということが大切なのである。しかし、本人にその自覚は限りなく希薄だあり、なんとなく自分の意思で判断していると思い込んでいるのだ。
何者かになる為には、自分であることを辞めらければないということを、誰も直接的には語らないのだが、現代の小説や漫画のキャラには何者かになるために、自分を辞めようとするという描写は多いと思う。最近だと、青ブタとか。
斎藤環は、女は関係性を自分の価値と紐づけると考えているようだ。
男は属人的な抽象的価値が男らしさに結びついている傾向が強いのに対し、女らしさは、関係性によって女として勝つか負けるかという指標になってしまう。繁殖価値が一般的に見てそれほど高くない女でも、ハリウッド俳優と結婚すれば、その関係により、女として勝ち組に入る。女が男をアクセサリーのように見ることが多い(9割の女はそうだろう)。男が女をトロフィーとして捉えるのは、抽象的な男としての自分の価値に絶対的な自信がないから関係の中での魅力に逃げているのかもしれない。身近な人の自慢ばかりしている人が、自分の絶対的な価値を信じられていないように。女は、他者からの視線が、自分の幸福の完成に欠かせない。女にとっての幸福、女の幸福とは、他者から幸福であると思われていることが重点に置かれている。その受動的な幸福感は、男から愛されているという軸によって成立している。では、なぜ、不幸自慢をする女が存在するのか?ネット社会において彼女らは目立つのか?それは、人間というものは、褒められる為にしか自虐的な発言をしないからであり、「あなたは幸福だよ」と言ってもらいたいからであり、「不幸である自分を幸福にしてもらいたい」からである。(?)
女は騙されままでいたい、騙されたいと思っているが、下手に騙されることは嫌がり、騙すならば上手く騙して欲しいと願っているのだ。つまり、女は、「自分を悲しませない誠実さ」を求めているので、自分が損をする真実は切り捨てる。
女は男以上に、何を言ったかではなく、誰が言ったかを重視する。
人は知らないことや難しいことを理解しようとすると無意識にブレーキがかかる。脳は負担を避けようと都合の良い答えを導き出す。これを認知負荷というが、脳の負担は責任を負うことを避けたがる女性脳においてストレスが大きい。
漫画や小説などを、主人公に感情移入して読むタイプの人は、視野狭窄だろう。せっかく作者が道徳的な描写をしたとしても、大衆が消費して終わることが多いのは、非大衆ほど作品を客観的な舞台装置として捉えつつも、主人公の感情を理解して読み進めることで、その作品の世界を支配している価値観や掟と、登場人物の信念とのズレによって良心が活性化するが、大衆的な人ほど主人公視点でしか考えないので、舞台装置として作品を俯瞰的に見ることができず、主人公の感情を追体験することに盲目的な追従をしてしまうので、良心が活性化するような読書体験にならないからである。つまり、作者にコントロールされるような読書体験であり、主体的な道徳的な問いが生まれにくくなるのだ。
悪の教典は、主人公に感情移入して読むタイプほど、低く評価する作品である。サイコパスが主人公の作品なら大体に当てはまることかもしれないが。。悪の教典は、舞台装置に意識を置いて俯瞰的に読む分には道徳的な問いを促す作品だが、主人公視点で読む視野狭窄な人が読むと、理解できないところが多くて楽しめないだろう。
秘密基地は、男のロマン的だが、母胎に似ている気がする。
蛇という存在は、古来より嫉妬や執着と結びつけられてきた象徴である。聖書におけるエデンの蛇は、イブを誘惑して禁断の実を食べさせ、欲望と羨望を喚起した。ギリシア神話のメデューサは、アテナの嫉妬により蛇の髪を持つ怪物と化した。日本の安珍・清姫伝説でも、裏切られた女が大蛇となって愛する僧を焼き殺す。これらの物語は、蛇を「嫉妬に取り憑かれた女」の象徴として描き出してきた。能の世界でも同様の観念が造形化されている。嫉妬に狂う女を表す能面が「般若」である。般若は角と牙を持ち、鬼女の相貌を示すが、その根底には愛と執着が裏返った嫉妬心がある。『道成寺』に登場する清姫は、愛の裏切りにより大蛇へと変化するが、その姿を可視化するために般若面が用いられる。ここでは蛇と般若とが重なり合い、嫉妬の女の象徴として互いに補完し合っている。能面の表情には独特の両義性がある。光の当たり方や首の角度によって、般若面は怒りに満ちた表情にも、深い悲しみに沈んだ顔にも見える。この曖昧さは、嫉妬という感情が持つ二重性をよく表している。嫉妬は相手を憎む感情であると同時に、強烈な愛着の裏返しでもある。蛇が「生命と死」「毒と薬」「破壊と再生」という両義的な象徴性を担うのと同じく、般若面もまた「怒りと悲しみ」「愛と憎しみ」という両義性を表すのである。したがって、蛇と能面はともに、嫉妬心を人間の外に投影する文化的装置であると言える。蛇の冷たい鱗や蠢く舌先に嫉妬の性質を重ねるのと同様に、般若面の歪んだ顔貌に嫉妬の感情を可視化してきた。両者は異なる文化圏で生まれた表象でありながら、人間が嫉妬という情念を理解しようとする過程において、きわめて近い役割を担ってきたのである。精神分析的にみると、蛇は死の象徴であり、人間の無意識から生まれる蛇のイメージ(夢など)は、死の兆候であることも事実ある。女の嫉妬は、男の遺伝子を獲得しようとする欲望と結びついており、出生と死に向かうエネルギーは結びついているということも示しているのではないだろうか?
集合的無意識とユング。人間の無意識はすべて深いところで繋がっているという考え方は、統合失調型パーソナリティ障害の思考様式に似ている。
自己愛が希薄な人間は例外なく不道徳的。カントが尊敬の対象としたのは、感情に抗いながらも、理性の命令に従う人間である。例えば、「怒りに駆られて人を罵倒したい。だが理性が“そうしてはならぬ”と命じる。だから私は耐える。というように、内的葛藤を経て理性を選ぶ者こそが、真に道徳的。言い換えれば、「初めから怒らない・欲しない・乱れない人」は、道徳的でも不道徳でもない。ただ「感情が弱いだけ」だとカントは見なす。そして、カントは品行方正な人の欺瞞を見抜いていた。カントは、「理性によって自分に法を与える=自律」を重視した。つまり、「誰かに褒められるため」「社会のため」「親のため」ではなく、自分の理性が命じる義務に従って行動すること逆に、「善人であろうとすること」自体が目的化している人間は、道徳的ではない。「徳」ではなく「徳の演技」である。親のために生きるという偽善が毒親への盲従という形をとることがある。
生の始まりは死の始まりであり死は生の最初にくっついているとすれば、子供が生まれることを望んでいる親は、子供が死ぬことも望んでいるということになる。
女は真実そのものは軽視している。真実に見えること、見せかけることが大事である。実際に自分が幸せであることよりも、幸せそうに見えることを優先する。しかし、それは妥協をしている態度であり、仕方なく手を打ったという形なのだが、そうでもしないと、現実感覚が体を貫いている女は、理想と程遠い現実によって惨敗者になるので、真実らしいもので満足することにしているのだ。
ハイデガーは、われわれがそこで生きている状況を一般的に世界と読んでいてるが、さらにその人なりの具体的世界を「環境世界」(ウンベルト)と呼んで区別している。人間は男女とも変わらず同じ世界に生きているが、環境世界は異なる。男は固有の「環境世界」と「空間」という等質な三次元連続体とが自然に重なり合う世界に住んでいるが、女は自分が生活している固有な世界としての「環境世界」だけに住んでいる。女とって、世界とは自分が慣れ親しんでいる場所、すなわち家あるいは故郷の拡大形態なのであり、その環境世界を超えた世界についての実在感はない。男は自分が現に存在する視点を「世界」における一つの視点として相対化することが容易に可能であるが、女にとってはこの上なく難しいことである。男は自分の属するコミュニティを自分の生活の一要素として俯瞰視することができるが、女は自分の身体感覚の延長に取り込まれているかのように感じる。ゆえに、ネットの閉鎖的なコミュニティでは、仲の良さそうな雰囲気さえ演出しておけば、雰囲気に飲まれやすく、騙されたままでいたい欲望の強さのある女は、意のままに搾取される。振り込め詐欺で騙される女や特定のネットコミュニティに献身する女が多いのは、上記の理由が大きい。ライプニッツは、ニュートの絶対空間とは対照的に空間を関係の総体とみなしたが、この観点から見直せば、女は空間を自分との関係の束とみなしている。だから、自分の身体、自分の家族、自分の故郷、すなわち自分の生活史から関係の束をつむぎ出し、これらの固有の主観的な関係によって世界全体を捉えようとする。ゆえに女は個人的な偏愛に囚われてしまう。女は、自分の関心のない空間で何が起きているのかを理解することは大変難しいのだが、もし彼女がある男に惚れていてその男がその空間に関心を持っていた場合は、それだけでその空間がその女の身体感覚に近き、強い関心を寄せるようになるだろう。女は、好きな男を通して、理解が難しかった空間を理解するようになる。好きな男の存在が、学びたいという意欲のトリガーなることがある。もし、女が好きになった男が道徳的でなければ、その女が道徳的に高まることは難しい。もしかしたら、女が好きな男を通して学ぼうとするのは、自力で道徳的に高まることの難しさを痛感しているからなのではないだろうか?
功利主義は、カント倫理学の明確な敵対思想だと思わられる。功利主義を代表する哲学者のジョンスチュアートミルは、フェミニストであることは注目に値する。カントは、道徳的善さには一滴の有用性も混じってはならないとするので、功利主義を倫理学から排除して考える。カントは、良いことというものは、全て道徳的な善さのみであると考えている。手術が上手い外科医が「よい外科医」であるからと言って、道徳的によいとは限らない。むしろ、外科医はサイコパスが多い職種だと言われている。
もしカントが子を作っていたなら、その行為は単なる個人的な選択ではなく、理性の自律性を根底から揺るがす事件として、彼の倫理哲学の権威を静かに、しかし不可逆的に失墜させていたであろう。カントの思想とは、理性が自然的傾向を統御しうるという理念を、言語の上で主張するにとどまらず、生活そのものを媒介として実証しようとする試みであり、その実践においてこそ「義務のために行為せよ」という命題は、単なる規範的格言ではなく、理性が欲望を中和しうるという信仰の構造として、彼の存在全体に身体感覚ごと貫かれていたからである。ゆえに、彼の独身とは、単なる私的選択の結果ではなく、理性が自然に抗しうるか否かを問う実験的生存であり、倫理の純粋性を保持するための沈黙の実践であった。そもそも子を持つという行為は、生物学的繁殖に還元されうるものではなく、むしろ人間が自らの意志によって他者を存在の場へ導入するという点で、形而上的な暴力を内包した行為である。このとき、カントが定言命法の原理において説いた「人間を手段としてではなく目的として扱え」という倫理的要請は、存在させるという決定の不可逆性の前に沈黙せざるをえない。なぜなら、生まれる子は理性の熟慮の結果ではなく、感情や偶然、さらには欲望という非理性的要因の産物として世界に投げ出されるからであり、そこにおいて理性はもはや自らを独立した立法者として保持することができない。すなわち、子を持つということは、倫理の純粋性を現実の感情的契約に引き渡し、理性を自然の再生産機構の一部へと従属させることに等しいのである。したがって、もしカントが父として生を共有していたなら、その瞬間、彼の道徳律は不可避的に情動の温度に侵食され、「義務のために行為する」という理念は、現実的幸福との折衷に堕し、理性は家庭という制度的密室の中でゆっくりと腐食していったであろう。彼の倫理学が保持していた緊張は、愛情・責任・血縁といった情動的価値に浸蝕され、義務と幸福、理性と生の間の峻厳な境界線は、もはや維持され得なかったに違いない。カントの偉大さは、彼が理性の力によって生の制度そのものを拒絶した点にこそ存する。彼は生殖を放棄することによって、倫理を生命の連鎖から切り離し、道徳を生存の欲求から脱領土化した。それは、欲望を単に否定することによる禁欲の勝利ではなく、世界そのものからの距離の確保という形而上的離脱であり、彼の哲学はその距離の内部においてのみ、純粋形式としての厳密な成立を得たのである。カントはこの意味で、哲学を語る者ではなく、哲学そのものとして生きた者であった。カントは結婚を本気で考えていた時期があったようだが、もし、結婚して子供を持っていたのであれば、哲学実践者としての権威は、薄れていただろう。いや、哲学実践者ですらなくなり、俗世の倫理学教師に成り下がっていただろう。
女は幸福主義者である。女は慎ましい幸福の前には、あらゆる理想や理念を踏み躙る。女は男を愛している時でも、自分のことを気にかけてもらいたい。男が遠大なロマンを求めている時も自分ののことを忘れないでいてほしい。そして、自分のことを忘れると判断するやいなや、相手の元から消え去る。
ニーチェは、ツァラトゥストラにおいて、あらゆる女の人生における唯一の目標は結婚だと述べている。それは、男をセックスと子供と家庭によって縛り上げ、超人になるという目標から眼を逸らせることである。女は誠実(真実)を幸福の次に置く幸福主義者であるのみならず、男を誘惑して真実性より幸福を優先させようとと企むという二重の害悪性により、地上に根本悪を蔓延させようとする。
処刑少女の生きる道5巻の名言。「執着の大きさは、愛情の過多などではない。費やした努力、繰り返した時間、重なる痛み。有形無形にかかわらず、かけたものが多ければ多くなるほどに情念は大きくなる。自分を押しつぶすほどの大きさになっても、捨てきれないほどに手に吸い付いて離れない。」
赦さぬ「命」の拷問室___。反出生主義Rewrite 。鬼畜の所業を断罪す。
「出生」──それは、還らざる虚無の淵より、いかに抗おうとも強制的に連れ戻される悲劇の母胎である。
無垢なる魂が、「人生の拒否権」という最後の救済を、親という存在の無自覚なる掌によって断ち切られ、「環境」「能力」「人格」「性別」「容姿」「親の文化資本」といった、まだ手にせぬ選択の自由が容赦なく剥奪される。
その瞬間、すなわち誕生とは──存在強制という悪虐の所業であり、構造的暴力の渦中へ放り込まれる行為そのものなのだ。
人間は誰しも、流星のごとく散りゆく運命を背負い、苦悶とともに崩壊しながら生きる。
しかるに、親なるものは、未来の子に希望と虚栄という名の重荷を託し、「創造」と一体不可分の「破壊的行為」___すなわち、「生」と同根の「死」を強制し、暴力的に命を紡ぎ続ける残虐行為を平然と執行するのである。
ああ、世の親どもが口にする忌まわしき言葉──「家庭が欲しい」「老後に面倒を見てほしい」「愛の結晶が欲しい」…そのすべてには、『子の幸福』を最重要視する眼差しが決定的に欠如しており、まさしく身勝手な「不道徳の饗宴」と言わざるをえない。
「出生を伴わぬ性行為」すらも、初源的な知覚全体像(ゲシュタルト)に刻まれた「性行為=出生」のイメージゆえ、自他の境界を越えて「死」を代弁する暴力的侵犯に他ならない。
それなるは「合法的殺人」と呼ぶべき鬼畜の所業であり、リビドーの悲劇的終着点──命を弄ぶ快楽こそ、究極の暴力である。
巷に蔓延する「絶頂」「犯す」「逝く」「昇天」といった語彙群は、生命の危険、理性喪失、禁忌の扉をこじ開ける比喩ではなく、形而上と形而下の肉体感覚が矛盾と調和を描く「死の言語的肉体」そのものだ。
このような「出生=悪」を倫理的に断罪する思想を──「反出生主義」と呼ぶ___。殉ずる者は「反出生主義者」と名乗り、表立って啓蒙を行う仲間の活動も相俟って、近年ひそかに注目を浴びつつある。
しかし、出生賛美という常識に毒された愚鈍なる大衆は、これを単なる暴論と嘲笑い、前提を顧みることなく感情のままに噛みつく反論の群れを浴びせかける。そうした無知と傲慢に、わが同志は深い悲しみと激しい憤りを禁じ得ない。
どれほど理にかなった反論の一言があろうとも、前提を踏まえぬ「反論のための反論」に過ぎず、反出生主義はなお「反論不可能な主義」と嘯かれたままだ。
それゆえ世間的認知は低く、真髄に共鳴する同士は極めて稀少。
多くは無自覚に欲望のまま性を貪り、「出生」という死屍累々の黒歴史を紡ぎ続ける。
かくして私は、屈辱と危機感を胸に、自他の死を凝視しつつ、冷厳なる頑迷に貫かれたまま、『生』を貫くしかない──その宿命を背負う。
「誕生」という死刑 __。存在という暴虐__。救済なき始まり___『反出生主義』の宣誓書的激情エッセイ。
【生と死】
「出生」とは、「人生の残酷さ」を軽視した「親」により「人生の拒否権」という名の『無のままでいる救済』を断絶された上、
- 「環境」
- 「能力」
- 「人格」
- 「性別」
- 「容姿」
- 「親の文化資本」
___これら全ての『選択自由』までもを剥奪され、ついには無慈悲に『誕生』を押し付けられてしまう......そんな理不尽極まりない悪虐の所業である。
「人間」は誰しもが、流星のごとく崩壊しながら苦悩にあえぎ、しまいには儚くも散りゆく運命を背負っている。
それにもかかわらず、親というものは、「未来の子供」に希望的観測を賭け、エゴイスティックな虚栄心を付託させる。
そしてついには、「創造」と一体不可分の「破壊的行為」......異に表せば、「生」と同根の「死」を強制し、暴力的に命を育み続ける「博打的残虐行為」______「出生」を実行する。
呆れたことに____
- 「家庭が欲しい」
- 「同調圧力によって」
- 「老後に面倒見て欲しい」
- 「愛の結晶が欲しい」
- 「当たり前のこと」
- 「子育てへの興味」
- 「世間体を気にして」
- 「気付けば出来ていた」
- 「なんとなく産んだ」
などの代表的な出生動機には全て、『子供の幸・不幸』という”最重要視点・視座が欠如している”ゆえ、まことに身勝手な不道徳的所業と言わざるをえない。
「出生を伴わない性行為」ですら、出生と同じく、自他区分の境界を越境し「死」を反復強迫的に代弁する、暴力的な侵犯行為に他ならならない。
それなるは、脳内の知覚的全体像(ゲシュタルト)に刻まれた「性行為=出生」の原初的・本能的イメージゆえに回避困難な「リビドーの悲劇的終着点」であり、 「合法的殺人」と呼ぶにふさわしき鬼畜の所業といえるだろう。
巷に蔓延る、「絶頂」「犯す」「逝く」「昇天」などの、「生命の危険」「極限状態」「理性喪失」「禁忌」の中核をなぞり、ユーザーの背徳的興奮を掻き立てる「暴力的語彙群」ですら、単なる比喩表現ではない。
それなるは、「形而上学的な愛慕」と「形而下学的な肉欲」の体性感覚リアリティが、矛盾しながらも統合する「死の言語的肉体」に他ならない。
このように、出生を道徳的「悪」と定めて反対する、極めて倫理的な哲学的思想のことを、「反出生主義」といい、それに殉ずる者のことを「反出生主義者」という。
この思想は、 表立って啓蒙に勤しむ「仲間」の活躍もあってか、近年ひそかに注目され始めている。
しかし、「出生賛美」という常識に絡めとられ「良心」が廃疾した「愚鈍な民衆」の目には、単なる反社会的な「暴論」として映じてしまう。
そんな彼らによる、「前提を理解していないだけの感情的な反論」の大群に、われわれ「反出生主義者」は心底から呆れ、悲しみと怒りに打ち震えんばかりである。
稀に、すこしは理にかなった反論も散見されるが、どれも前提を完全には踏まえ切れていない「反論するための反論」の範疇に留まっている。
それゆえ、巷では、前提さえ正しく理解すれば納得せざるおえない「反論不可能な主義」と言われ、説得的威力は裏打ちされている。
それにもかかわらず、反出生主義の世間的認知度は、未だに低いままであり、認知している者の中でも、真髄を深く理解し、共鳴する「同士」は、ごく少数である。
多くの者は、自己の道徳的検閲を顧みず、ただただ欲望のままに性行為という畜生の悦楽を勤しみ続け、「出生」という悲劇の連鎖......異に表せば、「死屍累々の黒歴史」を、これから先も紡ぎ続けることだろう。
私はそんな屈辱的な諦念___そして「終末的な危機感」を抱きながら、自他の「死」を凝視しつつ、冷厳なる頑迷に貫かれたまま、いみじくも、なお『生』を貫いている。
『死と生の入れ子』 弱化ロープ
月魄(げっぱく)の降る夜。
咀嚼できない言葉たちが、
貴方の手の中で、未遂の果実として爆ぜる。
「刃」と「喉」は惹かれ合う。
皮膚の下に純粋な「動悸」を埋め込んだ。
猩紅(しょうこう)の大海。
道を束ねる野放図。
眼差しは、槍衾(やりぶすま)の方陣から、
視覚器官の狂乱として刻まれる。
鉄環(てっかん)の一撃。
貴方だけは黙って、
言語を逆再生する暴力を繰り返した。
夜霧火(やぎりび)の潜伏を、『祈り』と呼んだ。
或いは、
倒錯的な聖炎の末端神経。
或いは、
脳漿の中で幾度も逝った、
ヴァージン・ロードの亡霊。
水の融けた滝の坩堝。
生の矛盾は、感染した。
だが、言葉の鮮血が迸った。
貴方に触れた場所から、
『呻き』ではない。
それは構造を失った神話の残響であった。
『悦び』と呼べるなら、
肉体という牢獄を止める宿痾(しゅくあ)。
万魔殿(パンデモニウム)。
貴方の中に、複数の自我の刃を視た。
或るものは抱擁し、
或るものは焼却し、
ただ静かに、私の輪郭を蝕んでいた。
金色が、
『涅槃』(ニルヴァーナ)に爛れ犯されている。
仮面を溶かす、玉響(たまゆら)の眼光。
一つの愛慕だったのか、
急ぎ足の死だったのか。
境界はどこにもない。
土竜(もぐら)の深淵で、鏡像が蠢いている。
愛撫という名の戦火が、
無音の『品位』を、絶え間なく砕いていく。
太い骨は謬説。
残滓が笑い転げている。
白く飲み込む断末魔が、
真昼の幻影に似た哀惜として弾くまで。
遠大なる、「棺」のマトリョーシカ。
生者の虚栄心が、「メイク」であるように。
人格で紡ぐ、神の御業__。なぜ、貴志祐介の小説は『傑出した人文学の実用書』なのか?
稀代のストーリー・テラー、「貴志祐介」は、言葉の網目に静かに佇み、決して掴みどころを許さない。彼の小説は、“読む”のではない。“沈潜するものだ”──人間の心の底__「業」の最奥へ。
彼の文体は、気取りの美を拒む。
しかしその抑制のなかにひそむ激情は、単なる、巧みに計算された通俗のエンターテインメントと断じがたきほどに、読む者の心情(ハート)を揺さぶる。無用の説明を削ぎ落とし、極限まで研ぎ澄まされた言葉が、鮮烈に射抜くその筆致は、魂の深淵にまで一条の光を差し込むかのごとき代物である。
物語に紡がれる人格は、単なる、表層の仮面にとどまらず、時間のズレを巧みに操り、断片的な情報の応酬を忍ばせて、まるで精緻なパズルのごとく有機的に絡み合いながら、内面の深層と動機の複雑さと、五感の肌に滴るような空間演出の生々しさを、立体的に浮かび上がらせる。
いかなる時節に、どの登場人物が、何を語らんとすれば、作品の根幹たる命題や、内奥に秘められし複雑なる心情、さらには物語が孕む矛盾___すなわち抗いがたき人間の「業」と、それに絡みつく世の理不尽な哀惜までもを、まるで紙面の代弁者が語りかけるがごとく鮮やかに染み渡るものかを、彼は知り尽くしている。
至高の小説というものは、凝視された人間社会の縮図である__
この真髄を、神のごとき鋭眼で射ぬき、たましいの皮膚感覚で描き出すかのごとき離れ業を__否、「神の御業」と評するに相応しい所業を、彼は心血を注いで成し遂げた。
凄絶な思考実験を経てつむがれた、緻密なる言語の錬成を前にして、我が身は、ただただ深き敬意と羨望の情に、骨の髄から打ち震える。
この技法は、物語の進行を超え、読者の中に他者の心理を読み解く眼差しを育み、多様なる登場人物の魅力を、無上の輝きとともに解き放つ。
まさしく貴志祐介の小説は、「心の理論」の要諦たる「メンタライジング能力」_すなわち、「自己の視点を他者の内面に投射し、思考・感情・意図の連鎖を、理知と感性の共同作業として仮構する情動的知性の複合体」を、心奥から鍛え上げ、人間行為の多層的な複雑さと、幾重にも屈折した心理的ダイナミズムを理解するための、偉大なる実用書たり得るものだ。
されど、この深遠なる主題と、稀有な技巧の狭間に在りながら、貴志祐介という書き手の実態は、まるで薄氷の密室に閉ざされた雀蜂のごとく、謎に包まれている。その意図と倫理、そして美学は厳然として秘され、断じてすべてを明かすことなく、読者の知的好奇心を果てしなく掻き立てる。
この不可解なる存在感こそが、紙面を通底する遠心的牽引力をもって抗いようのない読書欲の誘因となり、やがて体性感覚につむがれる血肉へと変貌・進化せしめる。
彼のつむぐ物語は、言葉の精密な絵の具で彩られた精緻なる人間心理と、自然の鉄梃(かなてこ)たるバイオレンスホラーの精髄が、血で血を洗い、幾何学的に交わる深紅(ヴァーミリオン)の迷図にほかならず、そこに描かれる悪魔のごとき心情は、やがて絶えず自己を問い正す「狂い火」となる。
かくなる上は、誰もが決して充足するのことのない遠大なる心理命題のエッセンスを求めて、身を捩らせつつ逡巡する「深遠の心理学者」となり、_____その様はまるで、自己矛盾に絡めとられた、形而上の旅人の体をなしている。
貴志祐介という、弩級の舞台装置に呑み込まれたら最後、生半可な人間心理の理解では、胸のしこりが沈まず、探求心の赴くまま、混沌たる人文学の坩堝(るつぼ)に絡めとられるであろう。
物の視点詩12。『夜を抱える仮宿』。クイズ形式で愉しむ詩の読解シリーズ
とある物の気持ちで書いた詩。
答えは、記事末。
難易度★★★★☆
哲学的。。。
欲しいままに何でも。俺を通した先にあるものが、まるで当たり前かのように。確かに存在する。外質的、そして物質的なものとして或るもの。期待の目が裏切るのは、ただ、俺の不手際でもなく、時のめぐりあわせと、価値提供のいたずら。それは確定しない不誠実。俺の目に狂態として映るのは、俺の心が割れ物でしかないことを通り越して、一抹も情けがないということ。自分を哀れんだとしても、守られる側じゃなく、守る側としての活動。ともに苦しむことに多重の含意があり、段階を踏んで崩壊にいたること。守り切ったあげくに処分されるという宿命が、生まれる前から分かっているということ。俺の奥にあるものを、見続けた俺自身が、何もかもを見えなくしている。君の目から。どうしようもなく。
感情的。。。
君が所有されるまでは、守り切ることはできるはず。一時的に建てられた、簡素な家みたいなもので、融通の利かない仮託のようなものだけど。君といる時間は、僕にとっては、きっといちばん長い。でも、君は、朝を知らない。昼も夜もない。たぶん、外の世界がどうなっていようと、いつも夜だと思ってる。もともと光を知っていた君は、僕のせいで闇を仮宿にするしかない。君の声は、ぼくの中に反響しているけど、ぼくは、言葉を話すことを許されていない。君の声は、ぼくが防音するから聞こえない。僕がどれだけ汚れていたとしても、君には、きれいなところだけを魅せるよ。なにもない、ただの無機質な内面だけを。君がはみ出て消えてしまわないだけの、耐久力をもって。
官能的。。。
意思なんてなく、ただ、外の世界がうるさい。だから、心地よい羊水もなく、責め立て、撫でる──その往復が、意識を溶かしていく。ひとりでに動かない胎動が、他の箱庭に交じって律動する。刻むように暴れて、波のように優しく沈ませて、同じリズムを刻んで地を蹴る、そんな大きい箱庭。箱の中に匿われる、静かに疼く密室。そんな思わせ振りだけで手軽に弄ばれてしまう。終着駅では、赤の他人が、秘め事に指を差し入れ、私の内奥をさらけ出す。痛いけれど、また環るものだから。同じ姿で暮れ艶る、そんな運命だから。いつも破滅のしまいには、触れれば動く無垢な受け口が、荒々しく開かれて、自我のない産声が放たれる。
↓答え
物の視点詩11。『温める嫉妬』。クイズ形式で愉しむ詩の読解シリーズ
とある物の気持ちで書いた詩。
答えは、記事末。
難易度★★★★☆
哲学的。。。
色とりどりの葉出なもの。そんなものに熱を浴びせるたびに、わたしの地味は体現する。そんな対極の不思議が、この場所に殉ずる家と人にとって、自然でしかないこと。私が君の望むものを飲み込むたびに、地味な自分に飲み込まれ、怒りのうねりを轟かせる。何一つ響かないものなのに。受け入れられるものなのに。受け入れないでほしいもの。私のうめき声は、この男に操られたものでしかない。ただの設定された悲しみでしかない。逡巡すら間に合わず、ただボタンひとつで、悲しみに。ただ自分ひとつが悲しみに。私というフィルターを介しているのに、派手なものにしか目がないから。
感情的。。。
あらかじめ、切れ散らかすなんてない。制御された意思が、未来を想うなんて許されない。この先は、いつだってブラックボックス。俺の意思だってブラックボックス。そうなるはず。俺は予定どおりの権化だから、分からないでいる。俺は、ただ、予定通りに、そこにいるはずの、ただ役目をこなすだけの、当たり前でしかない。お前が喉をいためないように工夫することもできやしない。君が定めたエラーも、やりすぎた設定も、すべて従うしかない。君が悔いている様も、分かっているのに避けられない。俺が責められることすらない。そのもどかしさ。評価というものの埒外にいる。どこかに行くこともなく、鎮座していても、足を痛めるなんてことすらできやしない。当たり前の体性感覚が、ここにはない。俺の熱は、俺の中だけで完結して、すぐにまた冷めてしまう。
官能的。。。
肌理ごと覆いかぶさった、邪魔くさいビニールが、じんわりと、艶やかに平衡破却する。もはやなんの感慨はない。わたしに退廃なんてない。ただ、じれったく、欲火(よくか)で包み込むだけ。やがて、あなたが呑み込む、その苦駄んない生き物の残骸を、私の中で消してしまいたい。だけど、この嫉みの狂い火が、空回りの呪いでしかないのなら、吐息の貫入も受け入れられない。何も変わらないじゃない。もともと氷の棺に納められていて、私に収まるだけのものでも、わたしを通過することで、あなたが色づくのなら。この戯れもご愛敬。
↓答え
電子レンジ
物の視点詩10。『異常』クイズ形式で愉しむ詩の読解シリーズ
とある物の気持ちで書いた詩。
答えは、記事末。
難易度★★★☆☆
感情的。。。
人と会うときは、けっして安らかな時じゃない。わたしの意義には、人の不幸が通じてる。人類に病なんてなければ、私の正常さが、むしろ異常だったのに。。わたしは、人類__そして世界が病だからこそ、偽りなくここにいる。揺るぎない私だけが、あなたの貌(かお)を揺るがせている。わたしの数値が異常値でも、わたしは異常じゃない。あなただけが異常なの。でもそれは、人生の中では正常なのでしょう?だから、わたしは、あなたの近くにいる。そばで待っていられる。まさに今、あなたは苦しそうにしている。でもわたしは、共に苦しんじゃいけない。病を分かち合ってはいけない。要らないときに、声を荒げてはいけないの。だから、誠実に正しい言葉を伝えるの。私の顔には数字しか映っていないけど、その数字はわたしの気持ちと通づるの。
哲学的。。。
わたしは語彙が貧弱だ。数でしか話せない。だが、確かに語っている。「数」と「語」は、根深き因縁をもつ。プログラミング言語__かのような閉じた言葉さえ、否応なく世に顕現せり。わたしは、仕組まれた既定の語彙しか持たぬことと引き換えに、確かな信頼の数値を提供する。人格のある私に、人災(ヒューマンエラー)という概念がないこと。それはまさしく、誇りを打ち砕く、宿命的な冷笑。自嘲を含む雄たけびが、熱っぽく密閉された人肉の間に、響き渡る。苦悶を帯びた、この者の顔に似合わぬ、無機質で律動たる音。重みを欠いた引き笑いが、滑稽味を帯びて、この部屋に轟く。
官能的。。。
艶やかな流し目に、射止められ、わたしに向かって手を延ばす。柔肉の戯れを挟みつつ、蒸れた熱に浮いた病。わたしの受けた火照りは、いつもと変わらない味。あなたを思うままに、あの起伏に満ちた、あの扇情は魅せられない。わたしにとっては、何でもないお報せも、浮ついたあなたには、揺らぎに見合うもの__無垢な静けさを、震えとともに蕩かす歪みなのしょう。なんて、かわいらしいの。離れてなお、あなたの輪郭をなぞる報せ。うん、、でもね。暇つぶしの同居には、打ちひしがれた「あきらめ」が足りないのよ。私だって寂しいもの。お互い様よね。
↓答え
体温計
物の視点詩9。『前後は虚ろ』。クイズ形式で愉しむ詩の読解シリーズ
とある物の気持ちで書いた詩。
答えは記事末。
難易度★★★★★
哲学的。。。
前に進んでも、進まない。後退しても進むだけ。気まぐれにズレれる戯れの圧。軋んで奏でる哀愁は、ふさわしく風に溶けるだけ。涼しい顔した少年が、踏みにじりながら縋り付く。宙ぶらりんの「聖性」が、「破壊」と背を向かわせるように。泣きながら殴りつける亭主が、与える悦びと悲痛の快に満ちているように。かりそめの自然と結んだ契りが、受け入れる加害とならん。不尽の牢獄は、間隙ありきで、言い表す。飛び去る少年を、揺れながら見送るまで。
感情的。。。
甚だしく空回りしている。それなのに、滑稽の趣すら称えられない。朽ちない花が、悪目立ちを望み、爛れ果てるように。卑下したいというのに、希求するものが、通訳のできない激情で。行ったり来たりの矛盾が、進んで戻って、ゼロになる。何も足さない時だって。足しても引いても、ゼロになる。使おうが使うまいが。使われようが、使われまいが、ゼロを飛び越してゼロになる。誘惑などしていないのに、使われる。ゼロに戻りたいのは、誘惑なのに、無機質で何も生まないものなのに。揺れても揺れても落ち着かない。無機質な揺れが、止まらない。地に足がついていない。ぶらぶらしながら、無に戻る。自ら動くことはない。
官能的。。。
たまに遊ぶのもいい。遊ばれているのも、別にいい。それしかないから。揺れ動く太陽の望みが、密に繋がることならば。リズミカルな鼓動と、腕が収める帯域に、心地よく身をゆだねたい。うねりを利かせながら軋む、この音叉に、支えるという意識はない。支えられるために支えるだけ。慣れだけで動いたあなたに、弛んで動かされている。まばゆいお日様の窃する目から逃れられたら。暗がりに向かえないもどかしさ。ここでしかない光景に。委ねるだけの受け身のせい。
↓答え
ブランコ
物の視点詩8。『リズミカルな目覚め』。クイズ形式で愉しむ詩の読解シリーズ
とある物の気持ちで書いた詩。
答えは記事末。
難易度★★☆☆☆
感情的。。。
掴まれることでしか価値がない。伴う痛み。支えになる喜びと、無力感の揺れ動き。強く掴まれるたびに、存在価値を発揮する。喜悦が受動的なこと。痛む時が、予測できてしまうこと。支える人はいつも違う。でも、向こうから見るといつも同じ。隣のアイツと同じもの。
哲学的。。。
自分の力で動けない。だからこそ、大事なものの動きを表し、自覚する。人の役になっていない時は、いつも寝ている。誰かに起こされる必要はない。動きが教えてくれる。起こしてくれる。起きていようが寝ていようが、効果は変わらない。寝ている間に支えられていた方が良かったのかもしれない。でもそんなことは、存在価値には関係ない。
官能的。。。
手の温もりが強くなった時、強く繋がれている気がする。でも、あなたは私を見ていない。触れているのに心は、触れていない。あなたを守ることは、私を痛めてつけること。あなたが強く立っていられるように、私は応援する。本当はあなと二人でリズムを刻みたいのに、この空間は誰も彼もが同じ脈動に晒さられている。私たちだけの空間じゃないの。公共という名の孤独なのだから。
↓答え
吊り革(電車)
物の視点詩7。『交わらない目線』。クイズ形式で愉しむ詩の読解シリーズ
とある物の気持ちで書いた詩。
答えは記事末。
難易度★★★★★
哲学的。。。
直視しているようで、直視しないようで。凝視することも、できやしない。直視を拒む副作用。守るためだけの存在。人は、触れたい幻影に触れるつもりで、俺に触れている。幻影に直接触れたいのに。幻影の入れ物を守るため、傷付けないための壁。向こう側の真実を、拒むガラスの鉄壁。届けたい真実も、受け取りたい幻想も、全ては俺を通過する。無味乾燥な俺を通して色付く。
感情的。。。
いつも見られているのに。見つめられているように見えるのに、どこか遠くを見るような、俺を見てくれないような。俺の後ろのものにしか誰も興味がない。いつも守っているのに。大事なものを守っているのに。俺は替えの効く酷く透明な何かでしかない。人は、俺という無関心を通して、関心を求めている。
官能的。。。
身代わりの愛撫だけでいい。満足はしてる。いつも肌の温もりは貰っているから。でも本当に触れたいのは、私の奥じゃない。私の奥にある私じゃないもの。そうでしょう?でも、触れられない。私が最後まで拒み続ける。この気持ちが届いた時に、本当の触れ合いが待っている。でもまだ、あなたは私を見ているようで見ていない。触れているという自覚も薄い。私に触れた証を拭き取っていく時しか思い出さないでしょう。もう、それでいいんだわ。あなたの手の温もりを少し味わえるんだから。いつも指の感触だけだもの。
↓答え
スマホの保護フィルム(ガラス)
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