今日は心地良い秋晴れで、朗らかな気分だった。穏やかな時間が流れている。
先日、社員にちくりと言われた事が今になっても頭の中で渦巻いている。今はバイトの身であるのだが、いずれは正社員になりたいと思っている。が、正社員でやってゆける自信が微塵もない。私と同じ一般的な26歳は既に役職に就いているのだろうか。どんどん経験と実績を積んで立派な社会人になっているのだろうか。将来が不安で不安で仕方ないのだが、いざとなったら死ねばよいと思えば、心も大分楽になる。嫌な事が起きても元よりこの世は地獄だし、そんな事が起きるのも、まあ、当然である。結局は自分さえ良ければそれで十分なのだ。自己中心的な考えではあるが、自分の精神衛生を保つためには、この心意気が一番良いという結論になりつつある。誰も自分を見ていないから周りの目は一切気にせず好きに生きればよい。そもそも既に自分は死んでいるのではないか、それなら一層好都合だ。そんな事をあれこれ考えては、自分の心の苦痛を和らげようと日々模索している。はてなブログのスターを非表示にしたのは、スターの多寡で己の価値が決まってしまうと思ったからと以前書いたが、それに加えて己の承認欲求を肥大させない狙いもあった。でも、何だか寂しいからまた表示しようかしら。全く、本当に面倒臭い性格だと自分でも思う。
最近は日常系アニメを見ているのだが、登場人物が友人達と和気藹々、青春を謳歌している様子を見て、友人が一人もいない私は羨ましく思った。私は一人の方が気楽なのだが、それは強がりだろうか。いや、実際気楽に違いないのだ。でも、やはり、寂しさを感じざるを得ないのだ。しかし私はそこにいるだけで場の空気を悪くしてしまう。これは26年熟成した邪気の賜物だ。こんな私でも過去には友人と呼べる人がいた。しかし己の対人能力が酷く欠如しているが故に、幾度も友人を失った。親しき仲にも礼儀ありという言葉を忘れて、狎れてしまうのだ。その所為で相手の顰蹙を買い、疎遠になってゆく。そして、私はそれを学習しない。それらの過ちに気付いたのは友人を完全に失ってからだ。引きこもり始めて間もない頃は孤独が酷く辛かった。孤独には慣れている筈だったのに。
先日、「劇場版鬼滅の刃 無限城編第一章 猗窩座再来」を見た。今回で二回目の視聴である。一回目は8月26日に見た。一回目の視聴。前日に酒を沢山飲んでいたので腸内環境が破壊されていた。そんな状態なので、腹痛と便意に耐えながら見ていた。別の日にすればよかったのだが、前々からこの日に見ようと決めていたので変えたくなかった。上映開始数分でとにかく圧倒された。約3時間の上映時間だったが、その長時間が一切気にならない程で、あっという間に見終わってしまった。私は映画館が苦手だ。理由は他人の心の声を考えてしまうからだ。つまらないと思っていないだろうか、私はこんなにも楽しんでいるのに他の人は退屈だと思っていたら嫌だな。などと。目の前の映画に集中してくれ自分。加えて、上映が終わって皆一斉に出口へ向かう時間が苦しく感じてしまう。感想を言う人がいたり、黙って帰る人がいたりと、言語化するのが難しいのだが、何だか苦しいのだ。
流行りに疎かった私は当時、鬼滅の刃を全然知らなかった。立志編が放送されて数か月経った後だと思うが、当時私が働いていたコンビニの店内放送では「紅蓮華」と「from the edge」が繰り返し流れていて本当にうんざりしていた。私が鬼滅の刃を初めて見たのは2020年の6月か7月だったと記憶している。dアニメストアで視聴して、すぐさま夢中になった。無限列車編は三回見た。一回目は原作を読まずに完全初見だったので猗窩座の登場シーンは衝撃を受けた。そして数日後に漫画を全巻買って、繰り返し読み続けていた。既に私はニートだったので時間は沢山あったのだ。
鬼滅の刃は戦闘中にセリフが多く、それでも漫画ではさほど気にならなかったのだが、アニメではテンポの悪さが顕著に現れている。そのセリフを言うために戦闘がスローモーションになるのも気になってしまう。それが気になり始めてからというものの、心から楽しめなくなったように感じた。楽しみにしていた遊郭編も途中から段々と楽しめなくなっていったのだが、映像の迫力によって一瞬で吹き飛んだ。が、刀鍛冶編で嫌いになりかけてしまった。きっかけは不死川玄弥の走馬灯と後悔のシーン。CMを跨いでも後悔が続いており、その間に敵がゆっくりゆっくりと不死川玄弥の首を貫こうとしているのを見て酷くうんざりしてしまった。これではいけないと思い、一旦離れる事にした。何事も近付き過ぎず、適度な距離感が好ましいのだ。最近になって無限城編を見るために鬼滅の刃を立志編から柱稽古編まで全部見たが、やはり面白いという結論に帰結した。嫌いにならなくて本当によかった。9月15日の二回目の視聴は万全の状態で見た。ただただ圧巻。確実に三回目も見にゆくだろう。そして鬼滅の刃のアニメが完結するまで生きていたいと思った。
太鼓の達人に熱中している。段位道場という腕試し要素があるのだが、先日、九段合格を果たした。初級者に毛が生えた程度ではあるものの、大きな達成感があった。次は十段を目指して邁進する。これを書いていてぼんやりと浮かんできたものがあった。九段合格に向けて只管に練習していたのが、これが努力を努力と思わないという事なのだろうか。それをしている私は全く苦に感じず、楽しんで、少しずつだが上達していた。私が勉強に全く精を出せなかったのは、偏に楽しくなかったからだろう。ほんの少しでも勉強に楽しさを見出せていたら、今こんな事にはなっていなかった筈だ。
学生の頃にも熱中していたのだが、数回やっただけで人差し指の付け根辺りの皮が剥けてしまって長くできないのが悩みの種だった。バチの持ち方が悪いのか、それとも指の皮が脆いのか、おそらくそのどちらもだろう。今は指の皮が厚くなったのか、剥ける事はなくなり、上達に上達を重ねられていて大変楽しい。が、他人と比べてしまって自分が嫌になってしまう事が頻繁にある。その度に「比べるのは過去の自分。他人と比べるのは不毛」と心の中で自分に言い聞かせている。自分の速度でよいのだ。
アイコンを変更した。これは八月の上旬に撮ったものだ。労働を終えて帰路に就いた時、空に大きな入道雲と月が浮かんでいるのを見て感動したのだ。怪獣のような入道雲と白い月。思わず写真を撮った。今、これを書いている時、小さな蜘蛛が壁でぴょんぴょん跳ねていた。登っては降りてを繰り返していて何がしたいのだろうか、ただ遊んでいるだけだろうか。気付いたら消えていた。これらのような他愛もない日常の一コマに心を向ける事が増えたら、人生も穏やかになってゆくだろうか。
夏が終わり、秋が訪れる。私は夏も秋も好きなのだが、秋は過去に私が死のうとしていた季節なので、如何せん心が不安定になってしまう。それでも、どうにか、心を安定させつつ前へ進んでゆきたい。小さな一歩を確実に。