前記事で少し触れましたが、謙信は1559年に上洛した際、皇室・公家・幕府要人に特産品である「越布」を惜しげもなく配りまくっています。商品価値を高めるためのプロモーションを兼ねていたという説もあり、越布のいい宣伝になったものと思われます。
それだけ商品の価値が高かったということでもありますが、そもそもこの「越布」、なにゆえ高級品として遇されたのでしょうか?
苧麻布は性質上、染色に向いていない素材でした。絹布と比べるともちろん、のちに登場する綿布と比べても肌触りがゴワゴワしています。つまり繊維が固いということなので、染料が浸透しづらいのです。またこの時代の染料は草木染めがメインだったため濃い色が出せず、すぐに褪せてしまうという欠点がありました。
鮮やかな色を出すためには、素材が白ければ白いほどいいわけですが、青苧から織りあがった苧麻布は、ベージュっぽい色だったようです(それでも他の麻布――藤布、葛布、楮布などに比べると、十分白いのですが)。そうなると必然的に「布を漂白する」ということになります。
古くから知られていた布の漂白方法は、2つあります。まずは灰汁を混ぜた釜で煮る、という方法。繊維には様々な着色不純物(色素・窒素化合物・樹脂・フェノール類・ヘミセルロースなど)がこびりついており、これらを灰汁のアルカリ性によって煮汁に溶出させ、除去するという仕組みです。
もうひとつは日光をあてて漂白する方法です。皆さん経験があると思いますが、洗濯物を外に干すことを繰り返していると、徐々に服の色が褪せていきます。これは紫外線が着色不純物である有機化合物の分子結合を切断・分解することで、漂白効果が得られるからです。
上記2種類の漂白方法は近世の始め頃、更に進化します。まずは灰汁で煮て漂白する方法。これを進化させたのは、清須美源四郎という徳川家に仕える武士でした。1582年の天目山の戦いにも参加したと伝えられている彼は、直後に武士を廃業し、奈良にてこれまでの灰汁を使用した漂白方法に改良を加えます。試行錯誤のうえ、彼が確立した方法が「奈良晒」です。
基本的に「灰汁で煮る」という手法自体はこれまでと変わりないのですが、これを更に強化させたものといえるでしょう。灰汁で釜焚きし、臼で衝き、天日で干す、という工程を何回も繰り返すのです。アルカリ性の煮汁で汚れを溶解させつつ、力技で繊維に付着している不純物を取り除くというもので、要するに洗濯を荒くしたようなイメージでしょうか。
副作用として繊維にダメージが加わるので、布の持つコシが弱くなりますが、逆に肌への辺りが柔らかくなるので、一石二鳥の効果がありました(ただし弱い繊維だと切れてしまうので、丈夫な苧糸を使って織った布を使用したようです)。
もうひとつ、紫外線を使用する漂白方法は「雪晒」という手法に進化しました――しかも極めておしゃれな方法に。冬の好天日に、織りあがった苧麻布を雪の上に並べて置きます。すると上から降り注ぐ紫外線で漂白されるのみならず、雪が蒸発する際に生じるイオン化現象によって、下からも漂白されるという仕組みです。この雪晒は冬の越後の名物詩であったそうです。
江戸期に書かれた越後のガイドブック「北越雪譜」より「雪晒」の様子。「雪中に糸をなし、雪中に織り、雪水に洒ぎ、雪上に曝す。雪ありて縮(ちぢみ)あり。されば越後縮は雪と人と気力相半して名産の名あり」とあります。
「雪晒」は現代でも行われていますが、暖冬により積雪量が減り、年々難しくなっているそうです。それにしても、なんという美しさ。風流ですね。このイオン化現象ですが、汚れた布を漂白することもできるそうで、これを「越後上布の里帰り」と呼ぶそうです。これまた、おしゃれな呼び名です。
「越布」の別名を「白布」といいます。つまり謙信が配った越布は、この「雪晒」によって漂白された苧麻布だったのです!・・・と断言できれば納まりがいいのですが、どうもこの「雪晒」、いつから始まったのか?を示す明確な史料がないのです。
ちなみに「奈良晒」は天文年間後半、おそらく1582年以降に発明されたことは分かっています。もちろん「雪晒」との技術的な相関関係はありませんが、こうした技術というものは、市場の需要とリンクしてスタートするものです。市場が白さを強く求め始めるタイミングがその辺りだとするならば、そうした需要に応じて、雪晒も同じような時期に確立されたような気がします。
となると戦国期の「越布」の漂白方法は、おそらくはまだ一般的な手法に過ぎなかったものと考えられます。その人気の秘密は質というよりも、一定の量で生産できたことにあったのではないでしょうか。
室町期の「職人尽歌合」より、左が苧売りで、右が白布(苧麻布)売りです。後から着色が成されているので、苧麻布の色を100%再現しているわけではありませんが、ただ灰汁で煮て日光に晒すだけでも、それなりに白くできたようです。
しかし戦国晩期、日本において衣料革命とでもいう事態が発生します。綿花の国産化がようやく成功したのです。
意外なことに、日本では綿花栽培はこれまで行われていませんでした。一番古い記録として平安期の799年に「三河に漂着した崑崙人(インド人か)が綿の種を持っていたので、それを諸国に植えさせた」というものがありますが、うまく行かず定着しなかったのです。
そこで日本人は、木綿を綿布の形で中国や朝鮮から購入していました。中世日本人の木綿に対する渇望は相当なものだったようで、李氏朝鮮の国庫にあった綿布が日本への輸出で払底した、という記録が残っています。
李氏朝鮮との綿布貿易、そして「三浦の乱」についての記事はこちらを参照。
しかし日本各地で綿花栽培が爆発的に広がったことで、江戸の庶民はようやく木綿、要するにコットンの服を着ることができるようになったのです。なにしろ苧麻は繊維が固いので、どんなに工夫しても衣料としての特性では木綿には敵いません。綿の価格が下がっていくにつれて、庶民の服は木綿製に置き換わっていったのでした。
木綿に押されて苧麻の生産量が落ちたかというとそうでもなく、商品経済の発達とともに日本のGNPも増大したので、苧麻の商品としての需要も高まっていったようです。「固い」というその特性ゆえに、苧麻は高級品として生き残りました。例えば武士が公式行事の際に着用する裃です。形が崩れにくいので、儀式に使用する衣料の原材料としては最適だったわけです。
上杉家は関ケ原の戦いのち越後国を取り上げられますが、苧麻の商品としての価値を深く理解していたので、栽培ノウハウを転封先の米沢に持っていきます。そして江戸期には、米沢は苧麻の主要生産地になるのです。現在も唯一の苧麻の商用産地として福島県の昭和村が残っているのは、こうした流れからです。
一方、上杉氏のいなくなった越後では、「越布」は「小千谷縮・越後上布」として進化しています。これは緯糸(たていと)に強く撚りをかける方法で、これによって生地が縮み、肌にべったり貼りつかなくなるのです。肌触りがいいとのことで江戸期に高級衣料として大ヒット、現在も重要無形文化財として登録されています。なおこの「小千谷縮」、原材料の苧麻は上記の昭和村のものを使用しているとのことです。
このように苧麻は古代から近世にかけて、上杉家の財政の一翼を支えた商品で在り続けたのでした。(続く)
<この記事の参考文献>
・「苧麻・絹・木綿の社会史」/永原慶二 著/吉川弘文館
・「別冊太陽 日本の自然布」/平凡社