この猛暑の中、先日(2025年8月中旬)北陸に旅行に行ってきました。東京から新幹線で上越市に入り、現地でレンタカーを借りての旅行です。幾つか趣深い史跡を回れたので、紹介したいと思います。
まずは第一回、春日山城になります。上杉家の居城であり、為景・晴景・謙信・景勝と、戦国期後半から越後の中心地で在り続けました。
一言でいうと、中世の山城です。流石にメジャーな存在なので道は整備されており、八合目あたりまでは車で一気に登れます。つまりは遺構が破壊されているということでもありますが、かつての大手道にはほぼ手を付けていないようなので、最小限の被害で済んでいるようです。地元の人が大切に保存しつつ、観光地化したのがよくわかる、とてもいい城です。
現地の掲示板より。見やすいように縮尺を変えているので、実際とは距離感は異なります。地図でいうところの青線で示したのが、復元された大手道です。ここから歩いて登城することもできます。いまや私以上の城好きである息子は、大手口で車から降りて歩いて登城していました。私は今回は妻と娘も同行していたこともあり、大人しく車に乗って八合目辺りまで一気に行ってしまいました。赤線がそれです。なにしろ暑かったので、これは大変助かりました。駐車場で車を降りた後は徒歩で、今回の記事はこの水色ルートがメインになります。
まずは駐車場から、春日山神社へ階段を登っていきます。この神社は奈良の春日大社から分霊勧請したとのことで、春日山という名はこの神社から来たようです。元々神社があった山を、謙信の父である長尾為景が城塞化したんですね。階段を登ると春日神社があります。左手をしばらく歩くと、広場に出ます。そこには巨大な上杉謙信像が。
上杉謙信像。写真を撮るのも難しいデカさでした。この像がある広場を越えると春日山城の本丸部分が見えてきます。
分かりづらいですが、手すりの向こう側には深い谷間があります。谷間のちょうど向かいに三の丸・二の丸・本丸が段々状にあるのです。木が邪魔ですね。谷間を左手にみて、道に沿って弧を描くような形で歩いて進んでいきます。すると・・・
道の先に階段があり、中ほどに苧麻(ちょま)の群生地がありました。野生ではなく、観光用に植えたみたいですね。
春日山城の旅行記ではありますが、今回の記事のテーマとしては、この多年生の植物・苧麻(ちょま)についてになります。
苧麻とは、戦国期までは衣料の主原料となっていた植物です。江戸以前の日本の衣類は高級なものは絹、それ以外は麻でした。絹は物凄く高価なので、一部の上流階級しか使用できません。なので日本人の99.999%は、麻からできた衣料を着ていました。
麻は大別して2つあります。大麻と苧麻です。まずは大麻ですが、昔の人は衣料の他、麻紙や縄・籠などの原料として大麻を栽培していました。
麻薬としての大麻ですが、1676年に書かれた「万川集海」には、大麻の葉を乾燥させて粉にした、「阿呆薬」(凄い名前!)の作り方が載っているので、その効能(というか毒性)もある程度は知られていたようです。ちなみにこの薬を飲むと文字通り阿呆になるようですが、流石に大麻成分だけでそのような効果が得られるとは思えないので、かなり大げさに書いたか、或いは他の原料も混ざっていたものと思われます。
さて苧麻ですが、別名を「からむし」、バラ目イラクサ科の多年生植物です。こちらも同じ程度に歴史が古く、中国の歴史書「魏志倭人伝」に「(倭人は)紵麻を植え~」という記述があるようです。衣料としての質において大麻よりも上だったので、古代から中世にかけての日本人が着ていた衣料の主たる原材料となりました。
Wikiより画像転載。「からむし」こと苧麻。昔は日本各地で栽培されていた苧麻ですが、今では福島県の昭和村が唯一の商業用の産地となってしまいました。主に重要無形文化財である「小千谷縮・越後上布」の原料として栽培されています。なお沖縄・宮古島でも「宮古上布」という重要無形文化財があり、そこでも少量ながら栽培されているようです。
なお、この2種より程度の落ちる麻もありました。「藤・葛・楮(こうぞ)」など、木皮やつる草を原料とした衣類です。これらで織られた布はそれぞれ藤布、葛布、楮布などと呼ばれていましたが、総称としては「太布(たふ)」という部類に入り、区別されていました。
古代から江戸前期にかけて、貧しい人たちは概ね太布を着ていましたが、目が粗いので保温機能は低かったようです。そこで冬になるとこれを重ね着して寒さに耐えたようで、阿波の祖谷渓では「今年の冬は太布4枚」など、重ね着した太布の数で冬の寒さを表現した、とあります。
ちなみに拙著1巻に、猪吉という印地打ちが登場しますが、貧しさを表現するために、彼には太布を着せています。
苧麻に話を戻します。実はこの苧麻、上杉家の財政を支えた柱のひとつだったのではないか?と言われているのです。上杉家はとにかく裕福でした。例えば1559年、謙信は自ら1500の兵(記録によっては5000とも)を率いて上洛、都の公家や皇室・幕府要職にある人達に、多くの贈り物を配りました。この上洛にかかった金額は、凄まじい額に達したはずです。
また1560年からは、毎年のように関東に出兵しています。現地でかなり略奪はしていたようですが(それが目的であったという説すらあります)、遠征費用全てが賄えるほどではないでしょう。こうしたことを軽々と行えた上杉家の財源ですが、収入の内訳詳細が残っていないので実態はよく分かっていません。ただ、苧麻はその有力候補のひとつなのです。
上越市公文書センターの福原圭一所長による、「公銭勘定状」という史料を元に推測した研究があります。それによると、1529年の越後守護所の収入総額は4770貫553文で、そのうち500貫文程度が苧麻によるものではないか?と推測されています。個人的にはもっとあったような気がしますが、いずれにせよ多額の利益を生むことができる輸出品でした。
福原氏による、上杉氏の財政に占める苧麻の割合についての研究は、こちらの記事を参照のこと。とても分かりやすいです。
苧麻を布に仕立てるのは、百姓たちが農閑期に行う作業でした。まず刈った苧麻(長さ1.5mほど)を数時間清水に浸けた後、1本1本指を使って殻から分離させます。その後、皮と繊維を分離させる「苧引き」という作業を行います。相当に根気を必要とする作業だったようです。この繊維だけを取り出し、乾燥させたものを「青苧」と呼びます。
これが青苧。伝統工芸を途切れさせないために、「青苧の会」の皆さんが仕立てたものです。1.5mほどの長さで刈り取ったものを、上記の工程を経て青苧に仕立て上げます。
まだ終わりではありません。この青苧を更に湯で煮て柔らかくし、爪で細かく裂いていくのです。その繊維の先をより合わせてつないで、長い均一の太さの糸を作ります。ただし緯糸(たていと)と横糸とでは強度が異なる必要があったようで、緯糸は2本の繊維をより合わせた、とあります。この手順を「苧積み(おうみ)」と呼びます。何と手間のかかることか!
これを更に綛枠(かせわく)にかけて糸筋を正し、張り具合を均等にします。2日ほどそのままにしたところで、束ねて仕上げます。こうしてようやく「苧糸」の完成です。
苧糸を紡いだら、「いざり機(はた)」を使って、布にします。ネーミングの通り、体を前後に動かしつつ、足を使って糸の張りを調節しながら織ります。これがまた大変な体力と集中力を必要とする作業だったようで、刈り入れの終わった秋から春先までひたすら織り続けて、1人につき3~4反程度しか織れなかった、とのことです。
越後はこの麻布の名産地でした。古くはなんと、奈良期の731年に越後国から税の一部として都に上納された「越布」が、正倉院に現存するそうです。最も古代においては関東こそが主要な生産地だったようで、「延喜式・巻二十三」に残された記録を見ると、国に納められた「商布」は常陸・武蔵・上総・下総あたりが各々1万端を越えており、越後は1000端に過ぎません。
これが中世に入ると越後における生産量が増大、また極めて質がいいものとして認知されていきます。「吾妻鏡」1192年の条に「頼朝が征夷大将軍位に補任された際、京の帝に贈り物を送った」という記録がありますが、そこには馬13匹などと共に「越布1000端」とあります。帝に対する贈答品なので、この時代には既に越布は高級品としての扱いを受けていたと思われるのです。
長くなってしまったので、次回に続きます!(続く)