なかなか門主の言うことを聞かない、加賀門徒たち。石山本願寺が別心衆(つまり本願寺の敵)と認定した大物門徒・洲崎らの討伐を命じても「笛吹けど踊らず」で、加賀門徒らはなかなか動かないのであった。
これは何故かというと、別心衆認定といってもそこに教義的なものは一切絡んでいないからなのである。加賀の内部抗争は全て国人らの所領争いが原因であって、相手を陥れる方法論として「別心衆認定」を利用しているに過ぎないことを、加賀門徒らはよく分かっていたのだ。
ライバルを如何に別心衆として認定するか?その跡職をどうやって奪うか?これが現地勢力の最大の関心事であったわけだが、しかし本願寺側に付いたとしても安心はできない。それは過去の歴史が証明している。
かつて本願寺の意を受け、権勢を誇った者たち――加賀三箇寺や下間兄弟などは、都合良く使い倒された挙句、用済みとばかり粛清されてしまっている。こうした逆転現象を間近でつぶさに見てきた――というよりは、主体的に関わってきた者たちこそが、加賀の門徒たちであったのだ。
そんなわけで彼らの多くは、どちらが優位になるかはっきりするまで、曖昧な立場を取り続けるのであった。それは近隣の大名たちも同じであって、尼子氏がなぜ赦免依頼をしたかというと、いずれ復帰するかもしれない洲崎らに恩を売るいいチャンスとみたからなのだ。それだけ洲崎ら大物門徒の力は大きく、内外に浸透していたといってもいいだろう。
この点で洲崎らは、下間兄弟よりも有利な立場にいたと言ってもいい。前記事で紹介したように洲崎一族が加賀に腰を据えたのは、蓮如の吉崎入りと同タイミングの1471年である。それから70年近くの年月が経っているわけで、地の者として加賀に深く根を下ろすには十分な時間であったのだ。
さて彼ら加賀一揆の者たちは、本願寺警護のために順繰りに上洛するのが習いであった。これを「番衆」と呼ぶが、44年10月にこの番衆らが本願寺の寺内において武力行為を行って、証如から折檻を受けるという事件が起きている。争った相手が誰だかよく分からないのだが、どうも為替の返済を巡るトラブルであったらしい。
中世の寺社では、こうしたトラブルからくる武力行為(つまり自力救済行為)は珍しくなく、例えば根来寺では一定のルールに則った戦闘行為すら認められていたのだが、本願寺では禁止されていたのだ。
根来寺における自力救済行為「出入り」についての記事はこちら。1555年に根来寺境内にて、実際に発生した「山分けの出入り」の詳細を紹介している。
ブログ主の書いた歴史小説。主人公は根来寺内で生き抜いていくために、上記リンク先で紹介した事件に自ら進んで参加することになる。記事に登場する海千山千の強者たちに、武では素人同然の主人公は、四苦八苦しつつ立ち向かうのである。
これが本願寺の凄さなのである。いわば大名並みの中央集権化を成し遂げているわけで、こんな教団は他には存在しないのだ。それでも加賀衆はこうした事件を起こしてしまったわけであるが・・・跳ねっ返りの加賀衆の扱いに、証如が苦慮していたことが伺える。
しかし加賀は本能寺にとっては、金城湯池の地である。証如の記した「天文日記」によると、1536年に石山本願寺に入ってくる金額は、加賀一国だけで何と2000貫文にも達している。この実り豊かな加賀の地を、何としてでも本願寺統制下に置かなければいけない。
しかし既存の寺をリーダーにしてしまうと、加賀三箇寺や下間兄弟の二の舞になってしまう。そこで証如が取った方法が、加賀に門主直属の出先機関を置くことだったのである。それが1546年10月に加賀・河北郡に完成した「金沢御堂」である。この金沢御堂の住持は、本願寺門主自らが兼務するルールであった。
とはいえ門主が軽々に石山を離れるわけにはいかなかったから、実際の運営は代理人である御堂衆が行うことになる。その初代として証如が送り込んだのが、近江・広済寺の祐乗と慶信という堂衆であった。
両名の人となりを伝える記録は残っていないが、さぞかしクレバーかつ剛腕の持ち主であったものと思われる。ただ慶信については少しだけ記録が残っている。御堂衆を退いた後のことであろうが、その功により新たに金沢に慶恩寺を開基している。寺に伝わる由緒には「越中から飛騨にかけて精力的に布教にあたり(檀家を増やしたかったのだろう)、布教先の白川郷で90才で示寂した」とあるから、相当に精力的な人であったのは間違いないだろう。
金沢市立玉川図書館蔵「加州金沢城図」にブログ主が加筆したもの。北加賀は元から独立性の高い土地柄であり、現地の土豪たちは守護に対抗するためのツールとして、本願寺に帰依した側面が強い。そうした気風は本願寺門徒になった後も、受け継がれたのである。そこで本願寺は北加賀のど真ん中、河北郡と石川郡の境に金沢御堂(尾山御坊とも)を築いたのである。残念ながら金沢御堂は1580年に徹底的に破却され、跡地には金沢城が建ってしまったため、往時の威容を再現することは難しい。記録によると、空堀や柵などを備えた城造りの寺院であったようだ。上記画像は江戸期の金沢城を記したものだが、位置的には金沢城の本丸にあったと考えられている。赤い四角で囲った部分がそれだが、大きさは不明なのであくまでイメージである。青い丸が今も現存する、本丸から二の丸に向かう「極楽橋」である。真宗の教えに相応しい名称のこの橋は、金沢御堂の時からあったようだ。参詣に訪れた人々は念仏を唱えながらこの橋を渡り、帰る際は日本海に沈む夕日を拝みつつ、極楽往生を願って帰ったと伝えられている。
本願寺の加賀における統制強化を目指したこうした動きに、加賀一揆は当然反発する。同年、江沼郡における混乱を鎮圧するために、証如は他の三郡に対し鎮圧を命じている。これを「江沼郡錯乱」と呼ぶが、事態が収拾するのに1年ほどかかったようである。
また48年には能美郡の徳田ら大物旗本らが、超勝寺を襲撃する事件が起きている。この「超勝寺取懸騒動」の際には、他の郡の一揆衆も多く参加したようで、超勝寺は一時退去を余儀なくされる有様であった。
両事件ともに、反乱の主体は加賀の郡組織である。彼らがこうした反乱を起こすほど、この金沢御堂の設置は効いていたといえる。
加賀の統制強化のため証如はこうした強権を発動したわけであるが、併せて50年から51年にかけて、かつて「享禄の錯乱」で自らが滅ぼした加賀三箇寺所縁の者たちを多く赦免している(蓮悟の養子であった実悟など)。
それだけでなく、51年3月には洲崎孫四郎が赦免されている。この孫四郎、別心衆認定されていた洲崎兵庫助の親類であると思われるのだ。更にこの2年後の53年に下間一族が会食を催しているが、出席者としてこの孫四郎の他、河合藤左衛門の名も確認できる。彼もまた同じく別心衆認定されていた河合八郎座衛門の縁者と思われるので、洲崎・河合両家共にこの頃には赦免されていたのだろう。
また後年のこととなるが、76年には一揆のメンバーに徳田重清の名が確認できることから、「超勝寺取懸騒動」の首謀者であった徳田家もまた、時期は不明ながら赦免され、加賀で復権していたことがわかる。
証如は金沢御堂設立により加賀の中央集権化を進めたが、その際に反抗的な現地勢力を根絶やしにするという過激な選択肢を取らず、硬軟取り混ぜた方法を選んだのである。時間はかかるが、結果的に有効な手であった。
一方、取懸騒動で攻撃を受けた超勝寺であるが、反乱が鎮圧された後もその先行きは明るいものではなかった。加賀において指導的な役割を果たしていた同寺であるが、金沢御堂設立により、その存在理由が大幅に減少したからだ。
55年には、朝倉氏による加賀侵攻が行われている。翌56年4月には休戦交渉となるのだが、この時に主戦派であった超勝寺教芳は、和睦を進める本願寺の使者・下間頼言を毒殺するという暴挙を行っている。和睦条件が超勝寺に不利な内容だったものと思われるが、相当に追い詰められていたのだろうか。
ことが露見した超勝寺教芳は越前に逃亡したが、証如の送った暗殺者の手にかかり、殺されてしまっている(しかし本願寺が暗殺を多用するのには驚く。まさか直属の暗殺部隊を抱えていたわけではないだろうが、小説のいいネタになりそうだ)。
以後、超勝寺は二度と表舞台に立つことはなかった。かつて三箇寺や下間兄弟がたどった道をまた、超勝寺も避けることはできなかったのであった。
このように加賀はゆっくりとではあるが、本願寺の統制下に入っていくことになるのだ。(終わり~次のシリーズに続く)
このシリーズは(次に予定しているシリーズもだが)、この本の内容に帰すること大である。ライトな読者向きに書かれたものではなく、読みこなすにはある程度の知識量を必要とするが、一向一揆に関する最新の研究内容を反映させた良書である。著者の竹間氏は教員生活をしながら研究を進めたようで、本業の傍ら研究結果をこのような形で結実させたその努力には、頭が下がる思いである。この本のおかげで、当シリーズは成立したといっても過言ではない。なお記事中では竹間氏以外の研究者の説も参考にしているので、当ブログの記事内容=竹間氏の主張ではないことに注意。
<このシリーズの主な参考文献>
・戦国時代と一向一揆/竹間芳明 著/日本史史料研究会 監修
・北陸の戦国時代と一揆/竹間芳明 著/高志出版
・中世越後の歴史:武将と古城をさぐる/花ヶ前盛明 著/新人物往来社
・講座蓮如 第4巻/浄土真宗教学研究会・本願寺史料研究所 編/平凡社
・その他、各種論文を多数参考にした。