1535年11月、畿内全域を巻き込んだ3年にわたる戦役――「天文の錯乱」がようやく終わった。本願寺としては負けに等しい内容の和睦条件であったが、証如自身も戦さに心底ウンザリしていたのだろう、彼の治世後半において本願寺が戦さに主体的に関わることは、二度となかったのである。
ただしこの和睦が結ばれた約1年半後、1537年8月に加賀において反乱が発生している。これはかつて追放された三箇寺の浪人たちが蜂起したもので、超勝寺・本覚寺を打倒し、彼らに奪われた失地回復を目指したものであった。
この騒動を「若松方騒動」と呼ぶが、反乱は加賀の郡組織を主体とする一揆勢にあっという間に鎮圧されてしまったのである。
こうして加賀における三箇寺の影響力は払拭されたが、副産物として別の問題が発生しつつあった。それは加賀一揆の巨頭・洲崎兵庫助らの権力増大である。
先の記事で紹介した下間兄弟の追放や、若松方騒動で三箇寺についた六ヶ組の旗本・高橋新左エ門など、多数の反乱分子らが成敗されたことで、加賀には大量の欠所分、つまりは主のいない田畑や各種権利などが発生したのである。
本願寺に対する裏切り者(これを別心衆と呼ぶ)の欠所分の処分権・跡職任命権の多くは、地元の郡組織に一任されていた。すると必然的に郡の大物たちの権勢が増大することになる。この辺りをもう少し詳しく説明してみよう。
加賀・石川郡の代表的な一揆の大物として、洲崎兵庫助の名が挙げられる。この洲崎家、実は過去の記事にも名前だけちょくちょく登場しているが、かなりユニークな存在なので、これを機に詳しく紹介してみたい。
洲崎家の当主は代々「兵庫助」の名を襲名する習いである。その祖とでもいうべき存在が、洲崎慶覚為信(1433~1509)である。近江の土豪の家に生まれ、幼少のころに天台宗の僧になっているが、学侶僧ではなく衆徒という下級僧であったと思われる(根来寺でいう行人)。長じて山伏としての修業を積み、甲賀の飯道山で火乱坊明覚と名乗り、「飯道山の四天王」と号された。
そのネーミングセンスからして、かなりの暴れん坊だったと思われる為信であるが、堅田にて一向宗門徒の家に婿入りし、湖賊にジョブチェンジしている(天職だったのではないだろうか)。そして堅田・本福寺の法住との繋がりで、蓮如の弟子となり慶覚の名を貰い、本願寺武闘派として活躍することになるのだ。
1471年の蓮如の吉崎御坊入りに同行。河北郡松根にて道場を開くも各地の荘園を押領しまくり、守護である富樫家とトラブルを起こしてしまう。結果、1475年に発生したのが、過去記事で紹介済みの「湯桶一揆」である。この一揆のリーダー格として、洲崎藤右衛門入道という男が登場するが、彼はこの慶覚の親類であったと思われる。
1487年、加賀守護である富樫政親が将軍・ 義尚の要請を受けて近江の六角攻めに参加した隙をつき、加賀で一向一揆が発生する。「本国の情勢、危うし」の報を受けた政親は慌てて帰還、高尾城に籠城する。この時、2kmほど離れた上久安砦にやる気満々で兵を率いて入ったのが、上記の洲崎藤右衛門入道である。
ブログ主撮影(2025年8月)、高尾城。左が本丸であるが、駐車場から簡単に登っていける。これは何故かというと、1970年代に北陸自動車道を建設する際に、ここから大量の土取りをしたためで、大手から本丸に至る部分がごっそり破壊されてしまったからである。残っているのは本丸と、その後ろにある詰めの部分のみであるが、それだけでも結構な規模で、往時の規模が偲ばれる。右の画像の矢印は本丸から見た、富樫政親に対抗して洲崎らが籠った砦があったと思われる、上久安の辺りである。政親はきっと腕組みしてここに立って、一向一揆勢の籠る砦を睨んでいたことだろう。
この「長享一揆」の戦いの際には洲崎一族は揃って大活躍、当主の慶覚は晴れて道場を石川郡・米泉に構え、一帯を治める大坊主として君臨するのであった。
過去記事で触れたが、加賀には郡という統治機構がある(さらにその下には組という組織があるが、ここでは割愛する)。この郡という組織がいつどうやって成立したのかはよく分かっていないのだが、本願寺の拡大と共に郡も成長していき、最終的には本願寺の統治機構を支える下部組織になっている。洲崎慶覚は蓮如の親衛隊として加賀入りした門徒であるが、本願寺の力をバックに加賀の郡組織に入り込み、その拡大にあたって指導的役割を果たし、巨大な権力を握るに至ったものと思われる。
こうして洲崎家は加賀北部における一揆の大物として、重きを成していくわけであるが、権力拡大にあたっては相当無茶なこともしている。一例を挙げると、ライバル関係にあった松田次郎左衛門という武士がいたのだが、慶覚は彼に対して和睦を持ちかけ、米泉の館に招待するも酒宴中に謀殺してしまう。そしてそのまま主のいなくなった田井城に襲い掛かり、松田家を滅ぼしてしまうという事件を起こしている。
この松田家もまた、同じ本願寺の大物門徒であった。つまりこれは一向一揆とは関係なく、土豪の単なる権益争いなのである。山科本願寺にしても、こうした自力救済に基づく行為(要するに弱肉強食的行為)を禁止しているのであるが、ここで問題になってくるのが、記事冒頭で少し触れた「別心衆の欠所分の処分権・跡職任命権は郡組織にある」というルールである。
裏を返すとこれは「本願寺に対する裏切り者と認定された者の所領は、郡が好きにしていい」ということになる。そこで郡を仕切る大物たちは、己のライバルや立場が弱い者たちを別心衆であると本願寺に讒言、どさくさに紛れてその所領を押領していく、という行為を行うようになる。こうして一揆の大物たちの権勢が拡大していくのだ。
そうした情勢の中、河北郡にいる下田長門という男の別心が明らかになった。理由は明らかではないが、押領に関わる問題だと思われる。これを問題視した石山本願寺は、1538年2月に加賀四郡が協力して下田長門を成敗することを命じる。ところが河北郡の使者は「この命を下しても、河北以外の郡では同意を得られないので、河北郡のみへの命令としてほしい」という返答を寄こしている。
この下田長門の最大の後ろ盾になっていたのが、石川郡のリーダー格・洲崎兵庫助と河合八郎座衛門であった。要するに下田は洲崎らの与党勢力であり、彼らの同意のもと行動しているわけだから、徹底してかばう対象なのである。そして遂には「下田長門成敗の指令書はニセモノである」と主張して、成敗のためやってきた者たちを逆に殺してしまったのである。
怒れる証如は洲崎兵庫助と河合八郎座衛門を別心衆と認定、2人は加賀から逃げ出す羽目になってしまう。ところがこの両名、下間兄弟と同じように内外に強固な人的ネットワークをもっていたらしい。加賀から飛騨経由で京へ逃げる際、飛騨の照蓮寺は両名を拘束せずに見逃して上洛の手助けをしている(この後、証如から叱責されている)。結果2人は京において、ロビー活動を盛んに繰り広げるのである。その範囲は幕府のみならず、各種の寺社・公家・戦国大名にも及んでいる。
例えば8月11日には関白・二条尹房が、続いて12日には延暦寺から両名の赦免依頼が行われている。証如はこれを断るが、延暦寺は10月にもう1回、同じ依頼を行っている。この時、証如は「先の天文法華の乱の際、300貫送って協力しましたよね?あの時、逆に法華一揆を赦免してくれって言われたら、どんな気持ちになります?」と返答し、延暦寺を黙らせている。
天文法華の乱については、こちらの記事を参照。法華一揆 vs 比叡山の戦いにおいて、本願寺は比叡山よりの立場をとった。
寺社が駄目なら大名だ。翌39年には尼子経久が赦免依頼を行っている。両名の持つ影響力の強さが伺われる。
外だけではない。加賀において別心衆扱いされた両名の欠所分は、郡組織のなすがままになるルールであることは上述したが、いなくなった後も2人の与党は存在し、欠所分の再編成は進まなかったようだ。
それどころか逆に、洲崎・河合両名の与党による、本願寺系以外の寺院の荘園押領などが引き続き行われている有様であった。(続く)