北条家が無断で武田家と和睦したことを聞いた謙信は激怒、氏政に手切れの一礼を送りつけました。
その怒りたるや凄まじく、同盟破棄の5年後の1576年のことになりますが、将軍・足利義昭が(彼の生きがいである)第三次信長包囲網を更に強化するために、改めて上杉・武田・北条の「三和統一」進めたことがあります。
その時、謙信は「上意であれば武田との和睦には応じよう。しかし北条とは当家が滅亡しようが、将軍に勘当されようが、絶対にありえない」と言って断っています(包囲網自体は成立)。このように謙信は筋の通らない、つまりは「己の価値観に反する振舞い」を最も嫌う人でした。
その怒りの矛先は、氏政の実弟である景虎にも向かったのでしょうか。謙信は、後に氏政のことを「数枚の誓詞を反故にし、弟である三郎ならびに、代々忠信仕ってきた遠山親子を差し捨て、父・氏康の遺言に背いた~」と批判しています。
この批判のポイントは、赤い太字部分にあります。つまり謙信は、「氏政は三郎(景虎)を見捨てた」と断言しているのです。責任は氏政にあって、景虎にはない、と考えていたことが分かります。
謙信の美意識からしてみれば、既に上杉家の人間となった景虎自身には何の落ち度もなく、どちらかというと被害者と考えていた節があるのです。そんなわけで同盟破棄直後も、景虎を「後継者第一位」の座から外すつもりはなかったものと思われます。
しかしながら、関東の情勢はそれを許しませんでした。謙信の生涯の目標は関東管領として、かの地を静謐に導くこと。越相同盟が破れた今、主戦場は再び関東になったのです。にも関わらず跡継ぎが北条家出身の景虎である以上、世代が交代した時に上杉家の方針が親北条に改められる可能性があります――というか、間違いなくそうなります。関東の国衆たちにしてみれば、上杉家にどこまで付き従っていけばいいのか分からないわけです。
事実、越相同盟が破綻して以降、関東における上杉家の影響力後退は避けられませんでした。その象徴が北関東の水運のハブであり、氏康をして「一国を取ることにも代えられない」と言わしめたほどの要衝・関宿城です。1574年11月、この関宿城が北条氏に降伏開城してしまったのでした。
関東諸城の所在地をgoogle mapに落とし込んだもの。中央にあるのが関宿城。江戸川と利根川の交差点に位置しています。しかしこれは江戸期に行われた河川付け替え工事の結果そうなったのであって、それ以前は違いました。関東は江戸~昭和にかけての100年間で大規模な治水工事を行っており、戦国期の地形を現代のMAPで判断すると、判断を間違うことがあります。
こちら約1000年前の関東の地図に、関東諸城を当てはめたもの。平安海進と呼ばれる現象によって、関東では大規模な海進現象が起きました。これにより、霞ヶ浦は内海のようになっています。500年後の戦国期は小氷河期(シュペーラー極小期)だったので、海進はこの地図よりは後退しているはずですが、大規模な治水工事が進んだ現代の地形に当てはめるよりは、遥かにイメージが近いといえるでしょう。霞ケ浦付近、千葉と茨木の県境の水量の多さに驚きます。例えば土浦のすぐ南には、今は巨大な大仏があることで有名な牛久がありますが、この地名の由来は、牛が湿地帯に沈んでしまい沼に食われてしまうことから、牛食→牛久と名づけられた、とあります。この辺りは巨大な湿地帯だったのです。
戦国期の関宿城ですが、御覧の通り南に流れる太白(ふとい)川沿いにあり、更に多数の河川を通じて東の霞ケ浦にも繋がっていたことから、関東南東に向けての水運の要であったことが分かります。
謙信は関東における影響力を回復させるため、反北条の姿勢を強く見せる必要がありました。そこで彼が新たに出した結論は、景虎を後継者から外し、代わりに上田顕景を新しい後継者として遇することでした。翌75年正月、顕景は「上杉景勝」と名を改め、「御中城様」という敬称まで与えられたのです。
そもそも景勝こと顕景は、長尾家の分家である上田長尾家の当主・政景の子で、わずか5歳で謙信の養子となっていました。ただしこれは形式的なもので、引き続き上田家で育てられているようです。しかし64年に実父である政景が舟遊び中に舟が転覆し、野尻池で溺死するという不可解な事件があり(暗殺説あり)、10歳の時に春日山城に引き取られています。ちなみに景虎と結婚したのは彼の妹(或いは姉)なので、2人は義兄弟ということになります。
上田一族は、上杉家における先手を務める勇猛果敢な衆でした。景勝は一族を率いる長として育てられ、「上杉家を支える将」として将来を嘱望されていたわけですが、ここにきて一軍の将から後継ぎへと、望外の出世をしたわけです。
しかし謙信は、景虎のことを無下に扱ったわけではありません。こういう場合にありがちな「廃嫡」といった手段は取らず、その後も重用された形跡があるのです。謙信は何を考えていたのでしょう?
ポイントは景勝に与えられた「中城」称号にあります。ちなみに謙信の称号は「実城」です。「実城」が会長だとしたら、正式な跡継ぎである社長は、本来ならば「屋形」という称号になるはずなのですが、景勝は「御屋形様」とは呼ばれなかったのです。
つまり謙信の構想はこうです――景虎を後継者から外し、景勝に「中城」称号を与える。これは次世代を後見する意味合いを持つ。つまり景勝はある人物を、次の屋形として育成する責任を持つ――この説だと、景勝は「社長候補」ではなく「会長候補」だった、ということになります。
では次の屋形、つまり社長候補は誰か?というと、それは景虎の嫡男・道満丸以外にはあり得ません。謙信は自らの後継を「謙信→景勝→道満丸」、というラインにするつもりであった、というのが乃至政彦氏の唱える説なのです。
これは、なかなか説得力がある説です――景勝を跡継ぎにして、反北条の姿勢を明確にする。景虎は身を引くが、我が子が次期当主となるならば、野心を抱く必要もない。景勝にしてみても、道満丸は妹の子なわけで、上田一族としても文句は出ないだろう――謙信はこう考えたわけです。
ただし景勝が実子を持つことになれば、話は別です。つまり景勝は一生妻帯できない、ということになります。事実、謙信が生きている間は景勝には縁談話は持ち込まれていないわけです。しかし謙信亡き後はどうでしょう?ここが中々ハードルが高そうな問題ですが、前例があるのです。
それは謙信その人です。謙信は兄・晴景の中継ぎとして当主デビューしているのです。彼は病弱な兄が快癒するか、その嫡男である猿千代が成人した暁には、当主の座を譲るつもりでした。そしてそれこそが、彼が妻帯しなかった最大の理由でもあるわけです。
兄・晴景も、その子の猿千代も早世してしまったことから、結果的に謙信は上杉家の当主で在り続けましたが、彼自身は当主の座に全く固執していませんでした。事実、27歳の時に家臣間の争いの調停に嫌気がさし、高野山に向けて出奔するも慌てた家臣らに懇願されて渋々戻った、というエピソードは有名です。自分がそうであったので、景勝にも同じような生き方を求め、それが無理なこととは思っていなかったのでしょう。
しかし当たり前の話ですが、誰しもが彼のような生き方ができるわけではないのです。1578年3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れます。脳卒中だったようです。稀代の英雄は意識が戻らないまま、4日後の13日に死亡したのでした。(続く)