先に,歯科医の息子について書いた。今度は,平山君という内科・小児科医院の息子の話である。彼は高校の同級生であった。平山君は,大学付属小・中学校の卒業である。私は市のナンバースクール卒業なので,彼とは初対面だった。
平山君は,四角い顔で,体もがっちりしている。背丈は高い方だ。ただ,猫背気味にのしのしと歩くので,身長は低めに見える。顔つきは大人しく,性格も目立つタイプではない。だからと言って,そんな繊細な感じはなかった。声は低く,よく通るバリトンボイスである。髪や学生服の感じも,垢ぬけた感じはしない。あえて例えれば,これまでほんわかと何不自由なく過ごしてきたと思われる雰囲気を持っていた。
平山君の家は,内科・小児科医院である。街中(まちなか)に開業している。彼は長男で,妹が1人いる。私が,彼と付き合うようになったきっかけは,なんだったろうか?
私は1年生の時,別の友人Mといつも一緒にいた。その友人は文学好きで,私の短編小説を大変気に入ってくれた。私が中学卒業の時に書いた,文集用のショートショートである。そこで私に,声をかけてきたわけだ。背が高く,体つきもがっしりしている。天然パーマで快活に喋る。人付き合いもよく,オタクっぽい感じの全くない,明るい人物である。ほぼ1年間一緒に遊んだ。しかし,2年に上がる前に,父親の転勤のために転校してしまった。
それをきっかけに,私はすっかり孤立した。中学からの友人は,皆,運動部で活動していた。彼らとクラス内で話すことはあっても,放課後一緒に遊ぶことができない。転校した友人以外に,友達の輪を広げるきっかけが無かったのである。そんな時に,平山君と話をするようになった。仲良くなったきっかけは覚えていない。一緒に卓球をして遊んだのがきっかけだったか?講堂に卓球台が1台置いてあり,ラケットとピンポン玉を用意すれば,自由に遊ぶことができた。
平山君は,卓球が好きだった。一度,同級生のS君と2人で彼の家に遊びに行ったことがある。彼の家とは,すなわち内科・小児科医院である。敷地に入ってすぐが,平屋の診療所だ。その奥に,家族の住む2階建ての家が繋がっていた。驚いたのは,その2階の廊下に卓球台が置いてあったことである。私の家だったら,そんなものを置けば,廊下がふさがってしまう。しかも台の前後に人間が立つ隙間が無い。その日は,3人で卓球をして楽しく遊んだ。
1年生の時,私は油絵を選択した。芸術という科目で,音楽か美術を選択できた。音楽は苦手だったので[1],美術を選択した。美術は油彩だった。私は,油彩は初めてで,どんな道具が必要か,それをどう使ったらよいのかも知らなかった。当時の油彩の先生は,H先生という油絵画家だった。地元の初市(はついち)の風景を題材にしており,日展入選の経験もある。60歳前後のお爺さんだ。先生は,私の卒業アルバムに載っていない。恐らく,非常勤講師だったのだろう。H先生には,よく私の絵を褒めてもらった。めったに褒めることのない先生だったので,嬉しかった。私はそれで,根拠のない自信を付けたものである。それもあって,また書きたいと思う気持ちが常にある。しかし,他にもやりたいことがたくさんあり,道具をそろえる必要のある油絵は,なかなか手が出ない。そうしているうちに,私はH先生より歳をとってしまった。
そんなこともあり,2年生になって急に美術部へ入りたくなった。授業が終わり,午後4時頃に家に帰って一人でいるのが,つまらなくなったのだ。それを平山君に話すと,彼も入部したいという。彼も当時,私と同じく帰宅部だった。話がまとまって,美術室へ入部願いに行った。同じ学年の生徒だと思うが,男子の部長らしい人物に「これから入るのでは,なかなか続かない。大丈夫か?」という説教じみた話をされた。しかし,こっちは入部する気満々であるから,聞く耳を持たなかった。
入部して,そのあと何日か,美術室で石膏デッサンをしていた。最初のうちは,暗くなってから家に帰る疲労感が心地よかったものだ。その間,1日だけ,先輩らしき人が来て,私のデッサンを見てアドバイスをくれた。それ以外は,誰一人部屋に来なかった。私は,馬鹿々しくなり,何日か通った後,美術室へ行くのを止めた。部の行事もあったはずだが,私には全く連絡もなく,そのまま終わってしまった。平山君も,それほどやる気がなかったようで,すぐに来なくなった。結局,彼がどんな絵を描くのか分からずに終わった。
平山君と2人で旅行に出かけた。行先は北海道の函館である。そんな遠方の旅行に,家族以外と行くのは初めてである。どういう経緯だったか忘れたが,彼が提案したものと思う。内弁慶な私が言い出すとは考えにくい。私は当時,1人で電車に乗ったことも無かった。
旅程は,青森まで寝台特急で行き,青函連絡船に乗って函館へ行くというものだった。はて,寝台特急は私の街を通っていたろうか?特急,急行でどこかまで行って,寝台に乗り換えたかのかもしれない。50年を超える以前のことである。情けないが,これもよく覚えていない。
家族以外と旅行など生まれて初めてである。両親は,たいそう驚いた。アルバイトなどしたことが無いから,貯金はゼロである。全額両親に出してもらって,列車の切符を買った。両親は,どうしても信じられないらしく,平山君の家にも電話をするなど,だいぶ慌てたようだ。行き帰りの寝台特急と青函連絡船の切符を手にして,私はドキドキしながらその日を待った。
函館と言えば,函館山から望む夜景で有名だ。当日,父のカメラを借りて,意気揚々と駅へ向かった。駅で平山君と待ち合わせ,慣れない電車旅行の始まりである。電車や連絡船でどれほど時間が掛かったか,あまり覚えていない。連絡船はネットで調べると3時間半を少し超える時間である。初めての旅行であるから,楽しかったに違いない。恐らく寝台では眠れなかったであろう。私は枕が変わると眠れない,神経質な性格である。それでなくても高校生の初めての単独旅行だ。
さて,電車と連絡船に長時間乗り,漸く函館に付く。連絡船の,当時の到着駅は函館埠頭である。そこは,国鉄函館駅のすぐ後ろ(海側)にある。函館駅は,函館の街の南方に位置し,函館山がすぐそばである。街並みが記憶にあるから,函館山には徒歩で向かったのだろう。坂道と倉庫の立ち並ぶがらんとした道路を覚えている。函館山のふもとにロープウェイの駅がある。ロープウェイに乗ってようやく山頂である。暗くなるのを待って,いよいよ夜景の撮影だ。あちらこちらに夜景のポスターが貼ってあったから,初めて見る感じがしなかった。興ざめである。それでも,やはり綺麗な夜景であった。左手の湾には,橙色の電球をたくさん灯した船がいくつも出ている。イカ釣り漁船であろう。函館山の麓には,青い光にぼんやりと浮き出た,函館ハリストス正教会が見えた。
何しろカメラなど使ったことが無い。しかも,夜である。シャッタースピードをどの位にすればいいのか分からない。いろいろ試して沢山夜景を撮った。あとで見ると,殆ど手振れである。しかも,夜景以外に函館の街や平山君の写真を1枚も撮っていない。電車や連絡船も撮ればよかった。今の子たちは,スマホがあるのでその辺は慣れているだろう。しかも,撮ればすぐその結果が見れる。しかし,当時はフィルム写真だけであるから,現像するまで,どんな具合に撮れたかまったく分からなかった。しかも若いだけに,思い出として写真を残すという感覚が無かった。とにかく「100万ドルの夜景」を撮りたかったのである。
さて,ひとしきりカメラと奮闘して,気が付くともう〇時(午後6~7時頃?やけに早い時間だったと思うが,明確に覚えていない)だった。そろそろ帰ろうと,平山君とロープウェイ乗り場に行った。ところが,ロープウェイの運行最終時間を過ぎてしまっていたのだ。しかも,なんと雨まで降って来たではないか。夜であるから空模様など分からなかった。しかも,うっかり傘を持って来ていなかった。
さて,困った。夜中の列車に乗る予定だったから,函館駅に行かなければならない。僕たちはやむを得ず,歩いて山を下りることにした。函館山をらせん状に下って行く,途方もなく長い夜道だ。しかも,雨が降りしきる中である。びしょ濡れになりながら,緩やかにカーブする舗装道路を,2人でとぼとぼ歩いた。しばらく歩くと,僕らのそばに,山を下りる途中の乗用車が止まった。助手席から,若いお兄さんが顔を出して,君らどうしたと聞く。ゴンドラに乗りそこなったというと,車に乗れという。2人連れのお兄さんたちは,大学生に見えた。今思えば,変なお兄さんに引っかからなくてラッキーだった。礼も言わずに車に乗り,「何処へ行くの?」と聞くので,「函館駅へ行くところです」と答える。私も平山君も,シャイな高校生なのであった。無事駅に着き,礼を言って車を降りた。…と思う。車の中で,我々2人とも沈黙していた。お兄さんたちも特に話しかけてくることもなく,自分たちで会話していた。当然といった風で車に乗せて送ってくれた彼らに,大変感謝している。
そんなことで,函館で宿泊することなく,連絡船と電車に乗って帰ってきた。多感な時代であるから,詳細に覚えていても不思議はないが,50年以上たった今,明瞭に覚えているのは上に書いた程度である。2~30年前であれば,もっとよく覚えていた筈だ。それが,最近は人の名前が出て来ない年齢になった。過去の記憶も,霧の中である。歳を取るとは,情けなく,大変残念なことである。
それにしても,夜景以外に何も考えなかった。五稜郭やイカ刺し(毛蟹,ホタテ丼やうに丼(これは函館にないか?)など)を堪能することもなく,函館の歴史を勉強するでもない。今考えれば,何とももったいない旅行である。逆に,あれもこれもと忙しく見て廻る大人より,ずっと観光らしいのかもしれない。
1枚だけ,私1人を連絡船上で撮った写真が残っている。甲板での立位姿である。平山君が撮ってくれたものだろう。当時,私はスポーツ刈りをしていた。これまでは,坊ちゃん刈りで,前髪を手で横に流していた。おしゃれにはあまり関心はなかった。中学からずっと学生服だったし,休みの日に女の子と遊ぶなんて,殆どなかったのである。そしてどういうわけか,急にスポーツ刈りにしたくなった。髪が邪魔だったこともある。また,1人で勝手に孤立していた。「世界は自分がたった1人。見ているモノは皆まぼろし」などという病んだ心に支配されていた。だから,どんな格好でも気にならなかった。髪を切った次の日,クラス中の同級生が私の頭を見て,異口同音に声を上げた。それほど,顔の印象が変わったのであろう。写真の中の立位の私は,今と比べるとかなり細身だ。
1つ,他愛ない話だが,妙によく覚えていることがある。放課後,平山君と一緒に帰ろうと自転車置き場へ行った。2人とも自転車通学だったのだ。ところが,平山君がなかなか自転車を出さない。自転車の後輪を見ながら手でごそごそしている。「どうした?」と言って彼のもとへ行くと,ワイヤーの鍵を取ろうと懸命になっていた。
リング状のワイヤー式の鍵で,長い金属ワイヤーの両端に鍵と鍵穴が付いている。鍵穴は4桁のダイヤル式である。それを車輪と,座席を支えるフレームなどと一緒に輪の中に入れる。そして,鍵を鍵穴に差し込み,鍵穴のダイヤルを回して4桁の数字を動かす。暗号のようにするのだ。当時は,車輪が回らなければそれでよかった。しかし,最近は自転車ごと盗難にあうことが多く,ガードレールや電柱などと一緒にワイヤーでつなぐことが常識になっている。
私は,彼が何をしているのか手元を覗いた。ワイヤー式の鍵のダイヤルを一生懸命まわしている。「なんだ,4桁の番号を忘れたのか?」と思った。ところが,よく見るとびっくりした。なんと,このワイヤーが隣の自転車の車輪から来ていたのである‼そう,隣の自転車の持ち主が,自分のタイヤだけでなく平山君の自転車のスポークまで巻き込んでいたのだ。「ゲー。誰やこれ?」と私は言って,何か良い方法はないかを考えた。しかし,他人の鍵の番号など分かる筈もなく,4桁もあれば,大変な組み合わせ数である。
しばらく2人で鍵と格闘していると,私の肩を叩くものがいる。振り返ると,知らない生徒だ。雰囲気から上級生と思われる。ニヤニヤして「お前ら自分の自転車に何をしている」という雰囲気である。恐らく,平山君の自転車を巻き込んで鍵をかけた張本人であろう。私は,平山君の自転車に引っかかっているワイヤー式の鍵を指さして「何とかしてくれ」と言った。上級生とおぼしき彼は,それを見て即座に自分の失態に気が付いたようだ。慌てて4桁の数字をカチャカチャして,鍵を外した。私と平山君は,その上級生が謝るもんだと思って,静かに見ていた。ところが彼は,鍵を外すとそそくさと自分の自転車に飛び乗り,急いで門を出て行くではないか?2人は,あぜんとしてそれを見ていた。そこそこの成績で入学して,将来はそれなりの職に就くだろう人物だと思われるが,その正体がこれだ!2人で同時に「何だ,アイツ!」と叫んでしまった。
ある日,下校しようと玄関の外に出たら,ぱったり平山君と会った。学生の出入りする玄関は,正門の反対側にあり,広いグランドに面している。グランドはかなり低い位置にある。グランドまで横に長い石段が何段かあった。恐らくグランド側の土地は,もとは緩やかに傾斜して(下がって)いたのだろう。グランドを作るときに水平にしたために,校舎の方が高くなったものと思う。学生昇降口からグランドまでは,2~30メートルあり,広場になっていた。
その広場で平山君は,運動着姿で卓球のラケットを持ち,盛んに素振りをしていた。そう,彼は卓球部へ中途入部したのである。彼とは,よく卓球をして遊んだので,彼が卓球を好きなのは知っていた。しかし,部活に入部するとは思わなかったので,驚いた。彼は体が大きく,普段は動きが比較的ゆったりしているので,卓球のような細かく速い運動は難しいのではないかと思っていた。「好き」と「選手になる」とは違うのである。彼の中学での経歴は,全く知らない。しかし,運動部で活動することはなかったと考えている。私は,中学の運動部で,大変嫌な思いをした。私のような性格の人間には,当時の運動部の体質は大嫌いだった。毎日遅くまでのキツイ練習,先輩たちのしごき,いじめなど,とても我慢できるものではなかった。だから私は,高校で運動部に入る気はさらさらなかった。平山君も,私に似た性格だと思っていたのである。
例によってはっきり覚えていないが,恐らく早々に退部したと記憶している。当然の帰結である。
彼が卓球部に入ってから,一緒に遊ぶことはなくなった。その後,3年生になると,彼とは別のクラスになり,交流は一切なくなった。
私は高校を卒業し,大学へ進学した。進学してすぐに,硬式庭球部へ入部して,忙しい毎日を過ごしていた。
大学2~3年生の春先だったろうか,平山君から,長文の手紙が来た。手紙を最初に出したのは,私の方だったのかもしれない。平山君の手紙には,大学入試がうまく行かず,東京で一人暮らしをしていると書いてある。寂しいらしい。それならば,東京へ遊びに行って,彼を励ましてやろうと考えた。
せっかく東京に行くのだから,東京でしか味わえないものを経験したい。そこで,ライブコンサートがないか探した。ちょうど,「りりィ」のコンサートが,夜に予定されていた。「私は泣いています」がヒットした頃だ。早速2枚購入した。確か,都心の大学名のついたホールだったと思うが,これもすっかり記憶にない。宇崎竜童がゲスト出演することになっていた[2]。
彼と連絡を取り,日にちを決めて,電車で東京へ向かった。当時覚えたての紙巻きたばこ(セブンスターだった)を1時間に1本くゆらせて,退屈な電車旅行を我慢した。当時の列車は,たばこは自由である。やっと東京(私は東日本の人間だから,上野駅終着である)へ着いた。東京というと1974年に発売された,マイペースのヒット曲「東京」が思い出される。それを,電車の中で口ずさみながら,東京で「可愛い女の子と友達になれればなぁ」と夢想し,気持ちが高揚したものだ。若かった。東京へ到着して,彼が書いた地図を頼りに,彼の住む場所へ向かった。いや,そうではなく,渋谷駅で待ち合わせて,バスで行ったような気もする。えい。情けない頭脳だ。
そこは,一般的なライオンズマンションだった。立派な住まいに1人で住んでいた。間取りをよく覚えていない。今の一人用アパートのような,3畳とかいう狭いものではなかった。買ったのか賃貸なのか知らないが,さすが町医者である。ひとしきり談笑した後,恐らく外に食べに出かけたと思うが,これも全く覚えていない。
とにかく,この「医者の息子」の話においては,記憶の断片の,そのまた断片しか覚えていない。どうも,自ら記憶を封印したように思われる節がある。
夕方になって,早速,都心のコンサート会場へ出かけた。駅を出てから,会場まで歩いたが,肝心の会場へなかなか着かない。途中道に迷ったときは,平山君がとうとう切れて,不平を言い出した。コンサートへ行きたいという強い執着心が,彼には無かったからかもしれない。今のように,スマホで位置関係を調べることなどできない時代だ。足が痛くなるほど歩いて,なんとか会場を見つけ,席に落ち着いた。それからは,とても楽しいコンサートだった。「りりィ」よりも,宇崎竜童の方が数段目立っていた。彼は優れたエンターテイナーで,客を引き込む力が強い。コンサートが終わってから,平山君が面白かったと喜んでいた。とても楽しかったようで,私も嬉しかった。
その後しばらく,ご無沙汰していた。私が大学を卒業して就職し,2~3年経った頃,平山君の声を聞く機会があった。私が研修で東京へ来たときのことである。研修が終わったあと,宿を探さなければならなかった。そこで,平山君を思い出したのだ。しばらくぶりで彼の顔を見たかった。うまくすれば,泊まることができる。そこで,彼に電話してみた。相変わらずの様子である。いまだに浪人中のようだ。泊まれないか聞いたところ「妹が同居しているので難しい」という返事だった。それでは仕方がない。私は,JTBで宿を探すことにした。
それ以来,平山君との接点は全く無くなった。当時も,まだ浪人しているのには驚いた。特に入りたい大学でもあるのだろうか。「まぁ,それでも,いつかはどこかの私大にでも入って,父親の跡を継ぐのであろう」と,さほど心配もせず,彼のことを忘れてしまった。
それから,高校を卒業して10年も経ったろうか?私は,将来私の嫁さんになる女性と百貨店のレストランで食事をしていた(給料は安かった)。盆休みで帰郷した時だったと思う。その会話の途中,私と同い歳の彼女の兄(のちの義兄)が,小・中学校の同級生が火事で亡くなったと話したらしい。「誰?」と聞くと,内科医の息子だという。驚いて「名前は平山ではないか?」と聞くと,「確かそんな名前だ」と言うではないか…!
火は彼の部屋から出た。その後,隣家の庭に倒れている平山君が発見されたが,死亡が確認されたという。自殺ではないかと噂されているらしい。彼は,医学部へ入るため,そのときもまだ浪人中だったという。私はそのとき,すでに28歳である。もし平山君が,高校を卒業したあと,大学浪人を続けたとすれば,9浪目にあたる。あらぬ噂が立っても仕方のない状況だった[3]。
私は翌日,早速彼の家(平山内科・小児科医院)へ行った。あらかじめ電話を入れて置いた。彼の家までは,歩くと結構距離がある。しかし,テニスで鍛えた私は,可能な限り徒歩で行くのが当たり前だった。彼の家へ到着すると,両親と妹の家族総出で出迎えてくれた。
早速,事件の説明を受けた。医院の奥に隣接する2階屋の,彼の部屋から出火した。彼の部屋は2階にあって,消す間もなく慌てて窓から飛び降りたという。隣家のブロック塀に飛び移ろうとしたが,足を滑らせて地面に落下した。そのとき頭を強く打ち,救急車で運ばれた。そして,意識が戻らないまま亡くなったらしい。火は家族によってすぐに鎮火された。家族は,特に母親は,事故であると強く念を押した。
私の前に,T君が来てくれたという。それを聞いて思い出した。T君は卓球部で,平山君と仲が良かったのだ。背が高く,スマートで実直な人柄だった。小心でわがまま,人嫌いな私とはえらい違いの,立派な人格の人物だった。彼は文系であったから,我々(私と平山君)とは,クラスが別だった。
私はそのとき,別の都府県に就職していたので,平山君の事件は初耳だった。別室にある,彼の遺影が置かれた仏壇に手を合わせたあと,彼の部屋を見る。何の変哲もない,勉強部屋であり,ベッドが置いてあった。特に火が出た様子は分からなかった。綺麗に直したか,火そのものが家屋に燃え移らなかったのだろう。これも,よく記憶にない。窓から外を見ると,下には,例のブロック塀が見えた。結構距離がある。しかも塀の頭には,屋根のような飾りがついていた。「降りたとき,いかにも足を滑らせそうだ」と私は思った。
応接間で思い出話をした。テーブルに椅子だったろうか。左手に母親,正面に妹と父親がいた覚えがある。話の内容は全く覚えていない。というより,話のネタが無かった。高校時代の思い出を話したものと思う。彼のマンションに泊まったこと,ちらっと日記を見たこと,隣の音のことが書いてあったことを話したのを覚えている。何のタイミングだったか忘れたが,母親が「それなら,そのとき…してくれなかったの」と責める口調で言われた。私はたじろいだが,父親が「そんなことを言うもんじゃない」と助け船を出してくれた。私はその時まだ若く,社会性は皆無だった。すべて父母に任せきりであった。つまり,おぼこである。初めて会う相手に失礼かどうかを判断できなかった。実は今も,恥ずかしながら何も変わっていない。
その後,忙しさにかまけて彼の家へ行くことはなかった。盆と正月しか,実家に帰ることが無かったこともある。大変申し訳ないと感じている。今の自分ならば,たとえ儀礼的とはいえ,定期的にお参りに行ったであろう。当時の私は,一度,顔を出したことで,荷を下ろした気分だったのである。
Googleマップを見ると,今でも平山医院が,そのままそっくりある。撮影は2025年8月だ。彼と卓球をした,そして,彼の亡きあと,お参りに行ったあの家のままである。しかし,開院しているようには見えない。ひっそりとしている。屋根のペンキも剥げかけており,家屋もかなり古びている。玄関前のポーチは,舗装があちこちひび割れ,土が露出した部分がある。そこからセイタカアワダチソウが数本,我が物顔で立っている。玄関の戸には内側からカーテンが引かれていた。そして「内科・小児科,平山医院,☏…」と書いた,白く四角い箱型の看板がやけに新しく感じた。中にランプが入っており,暗くなると灯したのであろう。
[1] 音楽については全く素養が無く,育ちが人間を作る良い例である。
[2] 見つけた!1975年9月27日。ちょうど50年前ではないか!神田共立講堂だ!共立女子大,短大の講堂である。当時は,大きなホールが日比谷公会堂と共立講堂くらいしかなかった。だから,様々なコンサートが共立講堂で開かれた。TV,ラジオの音楽番組もここから中継されることが多く,共立講堂の知名度は高かった。翌年の12月で,共立講堂の外部への貸し出しを終了している。東京メトロ神保町駅からすぐだが,道に迷って,北の丸公園に出たのを覚えている。
[3] これを書いていて,最近の事件を思い出した。母親の強い指示で医学部を9浪した娘が母親を殺害した事件だ。精神的に追い詰められた末の犯行だという。世間が自殺と邪推するのも無理はない。