私は哀れな義弟を見つめた。孤独な義姉に付き合い、いつか自分自身をも手放しそうな青年を。この手をいつか手放す時が来るだろうと予感していた。ずっと怖かった。自分の辛辣さが無神経さが傲慢さが臆病さが彼を壊してはしまわないかと。昔から歩は不思議なほど私に懐いた。ニコニコと絶えず笑いながら纏わりついた。それがだんだん不快でなくなっていくことに気がつくのが遅れてしまった。いつのまにか弟は水無瀬晶に溶け込んでいたから。彼にあまりにも依存しすぎている。その自覚の次に訪れたのは強烈な恐怖の感情だった。これを失ったならどうなるのだろう。きっと私の日常を構成するありとあらゆるすべてが崩れ、壊れてしまうはずだ。この義弟は他人にも関わらず、腹立たしいほどにあちこちにその余韻を残していた。まるであの眼差しのように。これを失った後の世界に耐える勇気が私にはなかった。だから決めた。死んでしまおうと。そうすればすべて解決だ。そう思えば気が楽になった。これはある種のお守りのようなものだった。そう。少なくとも社会人になるまではそうだった。
とはいえ、その気付きは実のところたいしたものではなかった。ただ、それまで曖昧に見えていたものが鮮明に捉えられるようになったにすぎなかった。社会人になることは同時に一人暮らしの開始を意味していた。私はここで初めて弟の欠けた日常を味わうことになる。弟と完全に離れて暮らしてわかったことがあった。私には彼以外何もなかった。初めて独りになると驚くほど空虚な自分が浮き彫りになった。そこで気がついた。私を今まで生かし、意味を与えていたのはあの視線だったのだと。今までも十分に自覚的だったつもりだ。そんな自分を冷たく見つめ、嘲笑するくらいの余裕はあるはずだと勘違いしていた。誰よりも自分のことがわかっていないのは私自身だった。弟がそばに居ない自分はあまりにも希薄な存在だった。その気付きとともに訪れたのは愛慕でも喪失感でもなかった。いや。もしかするとそういった感情も混ざってはいたのかもしれない。ただ、核となる感情があまりにも強烈すぎて他は掻き消されてしまった。それは紛れもない恐怖だった。弟を失うことを恐れているのではない。明らかにそれは敵意を孕んだ恐怖だった。他者が自分を侵食することへの恐れと警戒。もしかすると歩自身でさえも気が付かないうちに彼は姉を根の部分まで蚕食していた。
内から湧き上がる拒否感と嫌悪感は耐え難いものだった。このままではいけない。猛烈な焦りとともにそう思った。今までの自分の愚かさを私は許容できなかった。そうして追い詰められるように実家との連絡を一切断ち、家族の訪問すらも拒んだ。弟に会ってしまったらその時には衝動的に殺してしまうのではないかと思った。今や弟は生きる意味であると同時に支配するものでもあったからだ。その程度には弱い自分とそうさせた弟が許せなかった。弟の影が失せるまで独りでいなければならない。もしかすると今まで生きてきた年月と同じくらいに。それでも構わなかった。弟をこの手にかけてしまうよりはマシだと自分に言い聞かせて日々をやり過ごした。
それでも半年が経った頃わかったのは、遠ざかったところで弟の存在を忘れることなどできないということだった。
その頃からだった。自傷行為を始めたのは。自分の中に弟以外の強烈なものが欲しかった。自分だけの何か。独り占めして誰とも共有できないもの。最も手軽に手に入れられる一つが痛みだった。痛みを感じることでようやく私は弟なしで自分の世界を構成できた。だが、それすらも危うくなるのは時間の問題だった。エスカレートするようにもっと強烈なものが欲しくなった。そうしてその果てに見つけたのが「死」だった。「死」という選択肢は昔から救いとして漠然とあったものだった。それはまだ未熟な私を罪悪感から救ってくれた。けれどその時だけは違った。死ぬことは唯一の救いだと思えた。
弟か私が死ぬまでこの地獄のような葛藤は続くだろう。水無瀬歩はもうどうしようもないほど人生に食い込んでいる。この楔を抜くことはできない。ならばせめて逃げるしかなかった。死という誰も追随することのできない逃げを打つしかない。そう思いついた途端、踊り出しそうなくらいに心が軽くなった。ボロボロになった私にはもはや逃げることに抵抗するほどのプライドも気概も残されていなかった。一刻も早く楽になりたい。そうして本当の孤独を手にしたかった。他者とは地獄とはよく言ったものだ。その通りだった。歩は私を死の淵に追いやるほど苦しめ、思うままにならない他人のような私の心は、さらに自身を振り回して苦痛を上塗りした。私にとって水無瀬晶はこの世で一番最初に出会った他人に等しかった。その程度には自分自身の厄介さに疲弊していた。
そうしてとある夏の夕方、私は私を解放した。私の部屋の鍵を持っているのは、実は歩だけだ。あの子は知らないだろうけど。歩に見つけてもらえるようにしたのは私の人生を狂わせたあいつへの復讐でもあり、祝福でもあった。彼一人ならきっともっと違う人生も歩めるはずだ。昔からそう思っていたのも確かだった。浴槽に溜まっていく水の音を聞きながら意識を失う中、最後に過ぎったのは幼い歩から伸びる影だった。夕暮れに照らされ、私を追いかける小さな影法師。その光景はなぜか束の間胸を切なくさせて、瞬く間に消えていった。
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弟視点で。