最終話 怪物と人間の論理
語り終えた彼女はむしろ退屈そうに見えた。ここまで衝撃を与えておきながら。やはり俺の姉はろくでもない女だ。当たり前のことを再度噛み締めながら、俺だけが感情的になっているようで急に馬鹿馬鹿しくなった。彼女は一度も激することはなかった。あまりにも淡々と用意された原稿を読むかのように俺に語って聞かせた。今この状況が彼女の予定にあったとは思えない。
それならなぜ?
今まで見えていた寡黙な水無瀬晶は幻だったのか。そんな風に思えてしまうほど彼女の唇は滑らかに動いた。誰かが止めようとしたって止まらないとでもいうかのように。俺は勇気を出してもう一度姉を正面から見つめる。穏やかな眼差しだった。どんな強い感情も通り過ぎた後の凪いだ水面のような瞳。それを見てようやく悟った。「最後だからだ」と。彼女は遺言しようとしているのだ。今、ここで。
気がつくと立ち上がりテーブルの向かい側に立っていた。俺の右手は彼女の左肩を掴んでいる。いつのまに俺は動いたんだ?手に入る力を抜くことができない。まるであの時のようだ。晶の1度目の自殺未遂に立ち会ったあの時。入院した彼女の肩には青あざがいくつか残っていた。姉は尋ねなかった。まるで自分の傷に関心がないように。
骨が軋む感触がした。確かに痛いはずなのに姉は嫌がるそぶりすら見せない。それどころかあいつは微笑んでいた。
「なんでわからないんだよ。生きてて欲しいってそう言ってるだろ」
加工なしの岩石のような言葉がボロボロと出ていった。雪崩れていく。何もかもが。
「俺に縛られたくないって?逃げ出すのかよ。あんた俺の言うことなんて聞きやしないくせに…!」
涙でも出るかと思ったのに瞳は痛いくらい乾いている。
「なんで…なんで俺から離れて行こうとするんだよ…!俺の人生に現れたくせに。勝手に消えるな」
半分泣き言のように吐いて姉を睨みつけると、そこには満面の笑みがあった。見る者をゾッとさせる弾けるような笑顔。晶とは思えないその顔。別人としか思えない変貌に昂っていた心が一気に冷えていくのを感じた。恐ろしかった。化け物のような女が本当に人ではないように思えた。一線を超えて別の生き物に変貌した。
晶はいつのまにかその両手で俺の頬を包み込む。そしてまた屈託なく笑顔になった。肌がまた粟立つのを感じる。
「もっと言ってよ」
「…は?」
「ねえ!はやく!!」
その声はもはや恫喝に近かった。喰われる、と本能的に思った。女はだんだんと身を乗り出してくる。今で触れそうなほど近くに姉の鼻先があった。
「あんたは甘いの。生きてて欲しいんでしょ?そんな生ぬるさで地獄を生きろって?」
だんだん顔に触れる手には力が入り、髪の毛が握り込まれていく。「ふざけんなよ」と晶は性別不明の低音で叩きつける。気がつくと俺は真上を向かされ、覆い被さるように姉がいた。小柄な女をいつになく大きく感じ、身震いがした。
「私はいつも求めてた。あんたが言うのを。なのにあんたはいつも待ってるだけじゃない。もうまどろっこしくて。なら生きるか死ぬかはっきりしたほうがいい」
限界まで見開かれた瞳は激情に踊っていた。俺を焼き殺してしまいそうな熱量だ。
「試したのか…?」問いながら、違う。と思った。こいつはそんな女じゃない。そんな簡単なことなら俺はここまで苦しまない。人間に怪物の論理はわからない。その理解不能さが俺をいつでも打ちのめしてきた。
「私がそこまで計画的じゃないことくらい知ってるじゃない。その口が開く瞬間をどれだけ楽しみにしてたと思ってるの?ねぇ、最高じゃない。この瞬間の楽しさに裏切られたたらどうしようって実はずっと思ってたんだけど」
その口は不気味に滑らかだ。潤滑油でも塗ったかのように。いつのまにか頬に置かれていた手から親指が伸びてきて唇の形を辿っている。
「いいよ。もう少しだけ生きても」
「え?」
「今日は楽しかった。明日もそうかも」
享楽的で危険な愉しみに酔い、彼女の目が三日月型に歪む。
「だから楽しませて。あんたが生きて欲しい分だけ」
お前にはそれができる。暗にそう言われた気分だった。なぜそんなにも確信に満ちているのか。それが一番わからなかった。
「晶はそれでいいの…?」
俺は封じたはずの呼び名で彼女に問いかけていた。我ながらあまりにも幼い声が出て、顔が熱くなるのを感じた。晶はさらに笑みを深くする。きっと彼女自身にもわからないのだろう。俺の義姉はあまりにも奔放で気まぐれで予測不可能だから。そんな自分の性質に水無瀬晶も振り回されて、挙句こんな生き物になってしまった。
もしかすると、誰よりも分かっていたつもりで、実は忘れていたのかもしれない。俺の姉は傍若無人で厭なやつなのだ。それを知ってもなお、こいつから離れることを考えられない俺も同じくらいの性悪なんだろう。そんな結論と共に俺はそっと姉の手を自分の手で包みこむ。その手は興奮の余韻を宿らせて、ほのかに温かった。
姉は生きている。明日は、まだ。
その事実だけでなんだか明日が来るのも怖くなかった。平凡な俺は人間のまま、怪物と共に生きる。怪物にはなれなかったけれど、それでも。一日、また一日を超えていこう。
「わかった」
そう告げると怪物はいっそう悦びに満ちて輝きを放った。乾いていたはずの俺の両目は生ぬるく濡れ始めていた。
***
たった1人の家族が涙を流す様を見ながら、今までになく私は満たされていた。ずっと渇いていたのだとようやく自覚した。あまりにも甘美な光景は麻薬よりもずっと中毒性が高い。多分、歩と出会ってから同じ事を繰り返している。この愉しみに勝る喜びはない。生きたいとは元々あまり思わない。けれどこの瞬間の旨みを手放すことには抵抗があった。だからこそ怖かった。歩がすり減り、私を諦め、逃げてしまうのではないかと。そうしたらもう二度と味わえない。この遊びは独りではできない。二人でないと、歩でないと、できない。別に自分の命など惜しくはなかった。むしろ歩の中に跡を残すようなやり方をいろいろ考えて時々実行してみるのはとても楽しい「遊び」だった。楽しい遊びの最中に死ぬのだ。これが理想の死でなくてなんだろう。他人にはわからない。歩にも理解できないはずだ。あいつはいまだに思っているのだろう。「俺の姉は理解不能の怪物」だと。それは誤解だ。私はあくまで空の器に過ぎない。私を怪物に仕立てたのは歩だった。私はあいつの注ぐ関心と視線にただ生かされて、場当たり的に生きてきただけ。フランケンシュタイン博士は人造人間を作り出した。なのに、世の中ではいつのまにか人造人間が「フランケンシュタイン」と呼ばれている。この話を聞いた時、私は歩を思い出した。怪物的な人間と人間のような怪物。そんな家族だから互いを満たせるはずだ。私たちは今日のことを忘れないだろう。最後の盃を歩は飲み干した。そう遠くない未来に今日を後悔する日が来るだろう。その絶望ができるだけ深いことを願った。それが私の糧になる。歩には深い傷跡が必要だ。この「遊び」を独りきりでも続けてしまう程度には。それにはまだ足りない。まだ、もっと深く穿たなければならない。ここは壮大な計画のスタート地点なのだから。私もまた怪物を造っている。哀れで呪われた唯一無二の怪物を。そうしてその果てに「水無瀬晶」は永遠の命を得るだろう。
「アキラの呪い」 【完】