チェット・ベイカーが流れる、零時をまわったこの店に他の客はいない。
真知子は泣くときでさえ、美しかった。彼女は『見られる』ことを知っていたから、こんなときにも化粧が崩れることはなかった。三杯目のウイスキーを置いたとき、頬を一条の涙が伝った。
涙に気づいた、それまで黙ってグラスを磨いていたカウンター越しの店主が、「どうされました?」と訊くので、真知子は涙の理由を打ち明けた。すると、男は、
「わかります、僕にも同じ経験がありますから。けれど、それはきっとあなたの糧になって、よりよい未来が待っているはずです」
と、真知子を慰めた。それを聴いたとき、なんて敬意のない男だろう、と真知子は思った。
『わたしの悲しみに気安く触れないで。わたしは理解なんかしてほしくない。涙を流している、それだけを理解してほしいのに』
男は、ただ黙ってグラスを磨いていればよかったのである。
店を出た真知子は、ヒールの痛みも忘れて、歩いて帰った。明日、酔いがさめたとき、すべてを後悔するだろう。
夏の湿った夜風が、嫉妬のように身体に纏わりついた。