1012
親友の結婚式で早起きする連れに合わせて7時頃起床。スーツ姿が物珍しくてたくさん写真をとったけど、いつものラフな格好のほうが好きだなとも思う。でもふだん見ない姿って新鮮で楽しい。連れが出ていったあとは、ひととおり家事をすませる。昨晩の皿を食洗機に入れ、生ゴミを片付けてシンクとコンロを磨き、洗濯機を2回まわして干し、掃除機もかけて、トイレと洗面所も掃除して、朝食もしっかりとったのに、友人たちとの待ち合わせの15分前に着いた。ちょっと自分じゃないみたいで怖い。
サンリオピューロランドは3年前に好きだった女の子と訪れて以来だ。テーマパークにいる人間というのはたいがい幸せそうな顔をしているものだが、客だけでなく館内の世界そのものに人を傷つける意匠(武器とか)がないことにずいぶん気持ちをやわらげてもらったような気がする。
パレードはちょうどボートライドに並んでいる途中で、直接見ることは叶わず、聞こえてくる音と照明で雰囲気だけ味わっていたけど、それでも「悪役」でさえ排除しようとしない「思いやり」に満ちたテーマ性は伝わってきた。一緒に並んでいた友人に、知恵の木は、世界中の人が仲良く、思いやりをもって暮らせるようにと願って植えられたものなんだと教えてもらって、平和への祈りが「知恵」と名付けられていることに胸を打たれてしまった。そう、知恵とは、人が人と共に生きていくためのものであるはずだよな、と思う。人を殺すために、蹴落とすためにつかわれる知に恵みなどない。
ボートライドも、下り坂が控えているのを見て、えっこれもしや落ちる!?心の準備が!と焦っていたらゆるやかに下るだけで、みんなで拍子抜けして笑った。そういうところも優しい世界だった。
ふらふらと歩き回って、ときどきアトラクションを楽しみつつ、レストランで他愛のない会話に興じていたらあっというまに閉園時間になった。どうもテーマパークというところはがんばらないといけない、楽しみ尽くさないと損をする場所のように思っていたけれど、こういう気負いのない穏やかな楽しみ方もできると知れて嬉しい。次行くことがあれば、パレードを正面から見てみたい。揃いのカチューシャを着けて遊ぶ友だちなんてこの年になるまでずっといなかったから、ここまで生きてきてよかったなと思う。別れがたくて入った近くのファミレスで、けっきょく3時間くらい話し込んだのも楽しかった。
連れが朝に帰ると連絡を寄越してきたのをいいことに、溜めていた日記を書いているうちに午前2時をまわり、そろそろ寝ようかと思い始めた矢先、連れから酔った調子の電話がかかってきた。あろうことか、今日結婚式の主役だったはずの新郎その人を連れ帰っていいかという。新婦のほうはいいのかと思いつつ、かまわないとこたえると、午前3時すぎにふたりで帰ってきた。新郎とは私も同窓で、演劇でかかわったこともあるし、学生時代(以前連れと交際していたとき)には大曲で一緒に花火を観たこともあるくらいの、顔見知りというにはやや親しい仲ではあるが、いまだに自分自身の友人というよりも「連れの友人」の感覚が強く、それがすこしさみしいときもある。ただ、ふたりの会話を聞いていると敵わねえなあ、と思う。ああいう友人を持てる連れのことが羨ましいし、自分は男ではなく、だからそこから疎外される存在であることをつくづく感じる。新郎もふくめ、同じ男子寮の出身者である仲間のことを、連れは「家族」と呼ぶ。そこには諍いも食い違いもあり、同じ寮でなければ関係が始まることも、続くこともなかったであろう間柄だ。愛憎、というにふさわしいそれは、すくなくとも私の知るような好意をベースにした友人関係とは異なるものに見える。「高度に発達したホモソーシャルはBLと区別がつかない」とは友人の言葉であるが、彼らの観察を経て得たのは、なるほどその言葉が真実であるという実感だった(連れ自身、酔うごとに「俺、あいつに惚れてんのかなあ」などとたびたび口にする)。自分が女であるがゆえにけっして手にすることのできなかったホモソーシャル性を、こうして間近に観察できることには、薄暗い喜びがあるなと思いながら、1時間ほど酔っ払いどもの話に付き合っていた。
1013
午前7時ごろに新郎を見送り、二日酔いで起き上がれない連れを置いて、祖母の卒寿を祝いに行く。ほんとうは私が施設まで運転するはずだったが、さすがに寝不足なので親にまかせることにした。祖母の好物の鰻を包んでもらって土産に持っていき、面会室でみんなで食べた。祖母は血色がよく元気そうに見えた。90歳ということは、亡くなったときの祖父と同じ歳である。
就職してからというもの、顔を合わせるたびに結婚のことを尋ねられてきたので、いい加減観念して同棲していることは少し前に伝えたのだが、それで満足してくれると思ったのは甘かったらしい。「いつかはちゃんとするんでしょう?」と言う、その「ちゃんと」とは法的に婚姻することを差しているみたいだった。「優しくていい人だよ」とか「向こうのご家族にもご挨拶はしているし、いい人たちだよ」とか「相手もこっちの両親に何度も会っているよ」とか法的な婚姻以外で安心してもらえそうなことを言ってみたり写真を見せたりといろいろ試みのだが、祖母の中では法律婚以外は幸せになったとは定義づけられないらしかった。連れの父親の勤務先が名だたる大企業であることまで持ち出して(私の名誉のためにいうが、これを言い出したのは母である)、ようやく「それなら大丈夫かしら」としぶしぶ納得する様子を見せられたのも嫌だった。私が婚姻しないのは主に同性婚と夫婦別姓の実現されていない差別的な制度に与したくないことと、家制度=家父長制が前提となった戸籍制度が嫌いであることが大きいが、私たちが私たちだけの意志によって一緒にいることを(そしてあるいは、一緒にいるのをやめることを)選べる状態であることに意味がある、というのが私と連れが意見の一致を見るところでもある。法律婚によって家制度に組み込まれること、すなわち私と連れふたりの話ではなくなることを、私たちはふたりとも拒んでこの形を選んでいる(言わずもがな、私たちの在り方は選択の結果であり、「選ぶ」余地をゆるされているのは、私と連れがたまたま異性の組み合わせだからである。戸籍制度なんてキモいもんは今すぐやめちまえと思ってはいるが、それは異性どうし以外の人たちを選択肢から疎外することを肯定する理由にはならない)。だから私の愛する人の価値が、その父親の所属によって図られることが心底悔しかった。私の幸せを願うと言うなら、私が愛し、信じた人と共にいるということ以外の何を重んじる必要があるのか、なぜ私の意思と、私のいう「素敵な人である」という評価のみでは安心の根拠たりえず、その父親の勤務先では安心できるのか、心底わからないが、理解できないという点ではおたがいさまである。家制度とはそういうものなんであろう。それは旧社会によってもたらされた価値観であり、祖母にとやかく言ってもはじまらない。わかる気もない代わりに、わかってほしい気もない。「幸せでいてほしい」という祈りだけはありがたく受けとめるが、その方法を決めるのは私である。
なお、母親は祖母の前では、話を簡単にするために私と連れのあり方を「結婚」と呼んだ。あ、こいつ端折りやがったな、と思った。将来も一緒にいる意思を持って一緒に暮らし、そのことをおたがいの家族や友人、職場の人間などにも認識されている、という点では、結婚の特徴を満たしているということもできるのだろうし、母が祖母とのコミュニケーションを滑にするために意図的に選んだ言葉だとわかっているからわざわざ揚げ足をとろうとも思わないが、なんとなく軽んじられたような気分にはなる。
昼すぎに祖母と別れ、海の方の友人を尋ねに行くという両親とも駅で別れて(60を過ぎてもこの人たちは私よりよほど社交的で活動的である)、電車でことこと帰った。一日横になっていた連れはようやく二日酔いが抜けたらしく、さすがに体を動かしたいというので、買い物がてら散歩に出た。数十分歩き続けているうちに川に突き当たったが、ちょうどそれがマジックアワーと呼ばれる暮れなずむ時間帯で、土手の上を行き交うランナーやサイクリストのシルエットがくっきりと橙の背景に映えて、息を飲むほど美しかった。狙ったわけではなかったから、ほとんど奇跡だね、と言いながら、その橙がすっかり紺に飲み込まれるまで川沿いをひたすら歩いていた。
日が落ちてからも歩き続けて、気づけば2時間近く経っていた。さすがにおなかが減って近くのラーメン屋に入る。よく並んでいる人を見かけるので期待していたのだが、もう来なくてもいいかな……という感じだった。悪くはないんだけど、チャーシューが脂っぽいのはけっこう苦手。一度ひとりで来た連れ曰く、前回はもっと脂身が少なかったそうなので、チャーシューガチャである。
夜はゲームをするほどの元気もなく、かといって映画を観てしまうと時間がすぎてしまうことがもったいなく思えて、ふたりでなんとなくテレビを見ていた。日付が変わってから始まったEテレの『地球ドラマチック“約束”の菜園 ~虫と野菜のハーモニー~』が思いのほかおもしろく最後まで見てしまった。映像の制作はフランスとドイツで、そのあたりにあるのだろう無農薬のハーブガーデンをめぐる植物と昆虫の生命のやりとりが美しい映像だった。映画だと観ているあいだは会話しないけど、テレビはふたりでわいわい言い合えるのが良い。そのあとも寝るのが惜しくてぐだぐだしているうちに、今度は『運転席からの風景』 という番組に遭遇した。ナレーションもなく、時折入る字幕以外は、電車の先頭につけたカメラの映像と、停車駅の周辺の風景を淡々と流すだけの不思議な番組だった。この日は京浜工業地帯を走るJR鶴見線が舞台で、知らないままではきっと訪れることのなかったであろう土地の風景が、そこで生活する人々の息遣いを感じさせながらただ存在しているのが、すごくすごくよかった。ガタンゴトンという単調な音を聴いているうちに眠くなって、終点の鶴見駅までたどりつくのを見届けて眠った。静かな夜だった。
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引っ越しを終えて、とにかく段ボールだけは早く処分したくて、配置なんか考えずに棚に適当に本を突っ込んだせいで、入り切らなかったやつらが床に積まれたまま1ヶ月が経っていた。そろそろ資格の勉強をしないといけないが、部屋が散らかっているとそちらに気を取られて集中できないので、今日こそやると決めていた。気合いを入れて手をつけた結果、見えていた未来だったけど、けっきょく一度入れていたものも全部出す羽目になり、いっときは身動きもままならないほどの状態になったものの、5時間近くかけてついに収拾をつけた。見違えるように床が広い。部屋から勉強しろと聞こえるような気がして、これはこれですこし落ち着かない。片付けているあいだじゅう、開けた窓から金木犀の匂いがむんと流れ込んできていた。
夜は冬瓜と鶏の煮物、南瓜の煮つけ、蓮根と人参のきんぴら、豆腐となめこの味噌汁、わかめご飯。冬瓜はこのあいだおつとめ品になっていて、はじめから鶏肉と煮るつもりで買ってあったのだが、帰ってきた連れは、最近冬瓜が食べたいと思っていたのだと驚いた様子だった。きんぴらはいつもの薄切りではなく、歯ごたえが残るような大きめの切り方にしたら、これが美味しかった。次もこれでつくろう。
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いつだかの飲み会でふたりきりになったタイミングで、「きりこさんは結婚しないんですか?」と何か聞きたげな顔で話しかけてきた後輩の左手の薬指に、真新しそうな指輪が光っているのが目に留まって、やはりねと思うなどする。あたりまえだけど、別に触れたりはしない。
20時退勤。今日は連れが夕飯を作ってくれるので、間食したい気持ちをおさえて、コンビニから一番遠いエレベータに乗った。待っていたのは秋刀魚の塩焼き、とろろ、栗ご飯!それと昨日の残りの冬瓜と鶏肉の煮物。秋刀魚はこのあいだよりもさらに脂がのっていて美味しかった。栗を剥くのはだいぶ苦労したらしい。はじめて連れに作ってもらった食事も秋の献立だったことを思い出す。食後は『少女革命ウテナ』を見始めたのだけど、美味しい食事をがっつきすぎたせいか血糖値が急激に上がりすぎたらしく、すさまじい睡魔に襲われてそのまま眠ってしまった。
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20時すぎに仕事を終えて、明日の友人との食事の店を見繕って、すこし体を動かしたくてトレーニングバイクを漕ぎ始めたまではよかったのだが、30分ほどで終わると思って見はじめたゴセが50分あったことが敗因だった。けっきょく最後まで見てしまって、気が付いたら22時近かった。夕飯を作っておこうと思ったのに、また間に合わないまま連れが帰宅。だめだなあ。私は週5・10時間労働もやれちゃう頑健な体を持っているけど、それって全然大丈夫ってことではない。心が死んでいる。
23時くらいに重い腰をあげて夕飯を作り始めた。今夜は肉じゃが。あとは昨日の残りの冬瓜と鶏の煮物(鶏はもうないが)、南瓜の煮つけ。作り置きがあるってほんとうに便利だ。選挙の話を連れとちょっとしたけど、いろいろ話せるほど自分の考えがかたまっていなくて、あんまり弾まなかった。そりゃあ政治信条はかなりはっきりしているから選ぼうと思えば選べるだろうし、選挙に行かないということもまずないんだけど、どこまで社会に絶望し続ければいいのかわかんなくて考えるのをやめてしまっているところは、正直ある。食べ終わったときにはとっくに12時半になっていた。シャワーを浴びて就寝。
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出社。天気のことをあまり思い出せない。雨は降っていなかったと思う。長丁場の会議を終え、18時半に退社して、同期と落ち合う。同期の新卒入社4人のうち、今となっては残っているのは彼女と私だけである。その彼女も所属がまったく違うので、研修を終えてからはめっきり会う機会が減り、気がついたら、会うのはこの日が2年ぶり以上だったらしい。もともと気兼ねなく話せる相手だったが、それにしても思っていた以上に楽しかった。これは入社当時から薄々自覚があったことだけど、私はずっと彼女のことを下に見たがる節があったと思う。入社したのが4月ではなかったこともあって、新卒の4人以外にも会社員経験のあるキャリア入社組も一緒に研修を受けていた。ぼろぼろに荒んで大学院から逃げ出し、ずっと暗い地底にうずくまって、このまま社会に適合できないのかもしれないと怯える日々を過ごしてから間もない頃だ。スタート地点の違う人たちと並べられて評価されるなかで、せめて同期の中では自分の価値を証明しないといけない、と躍起になる気持ちがたしかにあった。そこから丸七年がたって、まだ優秀な後輩に劣等感をおぼえたり、若手にはできる人に思われたいなんて見栄を張りたがっちゃったりするのも完全にやめられてはいないとはいえ、それなりに長いこと会社員をやって、やっていけるという手応えはただの実感に変わり、今はそういう気負いはだいぶ抜けてきたと思う。「なんでがんばらないといけないんだろうね」という話をしていたら、「あなたがそう思えるようになったことが私は嬉しい」と鷹揚な笑顔を向けられて、なんと懐の深い人だろうと思った。中学受験のときから今にいたるまで、現在進行系で能力主義に晒され続け、優秀であることを志向するように社会と親が仕向けた以上、私が人に優劣を見出そうとする悪癖から完璧に逃れることはたぶんできない。できないけど、それに左右されずに目の前の相手との会話を楽しむことはできるようになった。この人と話すのってこんなに楽しかったのか、と思った。それを見逃し続けていた自分の愚かさが悔しいけど、「北海道とか一緒に行こうよ」という彼女の誘いを、この人と行くなら悪くないなと思えるようになったことがすごく嬉しかった。
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仕事中、飲み物をとりにいこうとしてキッチンに行ったら、残りの栗で連れが甘露煮を作っているところだった。ちょうど出来たてを食べさせてくれて、これが棚ぼたというやつ。冷たい甘露煮はお菓子でよく出会うけれど、噛みしめることもできないほどにまだ熱いやつを食べたのは初めてだ。きっと蜜に長いこと漬けて冷えたほうが甘みは染みるのだろうが、かえって栗本来の味が際立ってすごく美味しかった。昼は連れが昨日買ってきたらしい安売りのカレーパン(美味しかった)と、残り物の炒飯。午後はさっぱり仕事がはかどらなくて、夕方気分転換に1回だけと始めたゲームに3時間を溶かして、そんなのやる前からわかってるのにね。自分のあほさ加減に落ち込んで、とりかえすように連れが帰宅する22時過ぎまでパソコンの前にいたけど、いまいち自分の作りたい資料がうまくイメージできなくて、ただ座っているだけの時間のほうが多くてもっと落ち込んだ。連れはすっかりそういう私の扱いにすっかり長けてきており、「とりあえず酒を飲めばいいんじゃない?」と軽口を叩いてさっさと肉じゃがと栗ご飯を温めはじめた。解決になってるんだかなってないんだかわからない軽やかさに気が抜けて笑ってしまった。救われている。