今、時間は3時36分。3と36は俺としては色々と意味のある数字で、というかまあ、これ以外の全ての数字にも意味を持たせてしまってはいるのだが、この2つの組み合わせには縁起が悪いという観念があって、引きこもり全盛期の不健康な心身の状態の俺なら、この観念に負けて何もできなくなっていたわけだが、つまりこうやってブログを書くこともできなかったわけだが、今ならこれくらいならスルーできるほどに心身は回復しているようだ。
ただ、いまだに勝てない観念があって、それは父親からくる不吉さだな。彼の存在が近くにあると今でもやはりフリーズしてしまう。まあ、もっと正確に言うと20%ぐらいのことはできるが80%ぐらいのことはできなくなってしまう。いや、ちょっとそれは大袈裟か、これも今は少しマシになっていて、40%ぐらいのことはできるが60%ぐらいのことができなくなる、くらいかもしれん。
そしてまあ、その原因のひとつとして、端的に言うと、彼のことを不当なまでに嫌いすぎてる、というのがあるんだろな。「不当なまでに」と書いたが、これは、長年、彼の嫌な部分を見続けたがゆえに、実際に害を被ってきたがゆえに、もう無条件にアレルギーが出るようになってしまったわけだ。それが強迫観念という脳の誤作動という形で表れているわけだ。彼の存在がある状態でコレをすると必ず失敗する、アレをすると必ず悪いことが起こる、などと思い込んでしまう。それで多くのことができなくなる。
昨日、ちょっと考えていたことがある。自己啓発系のYouTubeの動画を見ていたのだが、他責はダメだの、人の良いところを探せだの、自己啓発でありがちなことを言っていた。しかしまあ、それは正しいわけで、だから、俺も父親の良いところを探してみようと思ったのだ。ちなみに、その動画では、人間、悪いところを見つけるのは極めて簡単だが、良いところを見つけるのは難しい、とも言っていて、まあ、これもその通りだなと思った。そりゃそうだ、人間、というより、人間を含めた動物は、ネガティブな情報すなわち危険を察知する力が弱いと、危険を回避できなくなるので、そういった個体は進化の過程において自然淘汰されていったわけで、残った個体である我々はネガティブな情報を見つける力が優れているわけだ。対、人においても。
で話を戻すと、父親の良いところって何なんだろうな、と考えてはみたのだが、まあ、体が健康、体が強い、ぐらいなんだよな。つまり内面の良いところが見つからない。なんせ彼は息を吐くレベルでの虚言癖があるので、彼の言動や行動から彼が本心でそれを言っているかやっているかが判断できないわけだ、一見よさげなことを言っていても嘘だったり、いいことをしているふうでも、けっきょく裏に汚らしい別の目的があったりする。実際、彼と生活してきてそれを何度も何度も思い知らされてきたわけで。だから嫌いなわけだが。
しかしまあ、見つけた。彼は、自分自身のことを尊重している、そして欲求が強い、欲求とはあれだ、俺もあまり詳しくはないのだが、森田療法的な“生の欲求”というやつだ。彼はこれが強い。ちなみにまあ、生の欲求とは、一言で言うと“よりよく生きたい”というやつだ。まあ、以下に参考リンクを貼っておく。
参考1:森田正馬の神経質概念とは(動画)
参考2:「自分の気持ちに嘘をつかず、心配性を生かす」 '18.12
参考3:人間の存在を恐怖と欲望から理解する~森田理論
しかし彼は、よりよく生きたいと思ってるはずなのに、よく生きれているようには見えない、実際よく生きてはいれないと思う。それは、まあ、その自身の生の欲求が強いという気質への対処を間違ってしまい、空回りしてしまった結果だと思っている。ああ、なんかもう書くのがめんどくさくなってきたので詳しくは書かないが、とにかく、その生の欲求が強いという気質自体は悪いものではなく、良いのものだと思う。それは向上心に繋がるわけなので、さらにはバイタリティにも繋がるわけなので。しかしその強力なエネルギーの源泉にさえなり得る気質も、そこに正確な自己分析や具体的な努力が伴わず、虚勢と虚栄に消費してしまうと、人生終わる。
そしてその良い気質、俺は彼にそこが似ていると思う。悪いところもたくさん似ているが、というかこれもやはり、悪い似ているところばかりが見つかってしまうのだが、数少ない良い似ているところはこの生の欲求の強さだと思うのだ。ただまあ、俺もまあ、自己分析も努力もできない低能で、しかももう初老の年齢で、ダメダメなのだが。しかし、まだ、俺はこのまま終わりたくはない。
なんか書くのがめんどうになってきて、とういうか論点がズレてきた気もするが、あれだ、彼のそういう部分を見て、彼に対する嫌悪感を、そこから生ずる強迫観念を、少しでもマシにできればなと、思ったりしたわけだ。